鬼の血脈 降誕と水死する恋[八]



 ――広太はん、託しますえ。うちのいっとう好きな、この地、この一門。

 そう言って、からりと笑った女は、誰より一門を慈しむ、強く気高く美しい女だった。
 それが、八年前に死んだ、三船の妻で、綾の母で、二家門閥の主たる女の最期の言葉だ。
 三船より五つも上で、あげく未亡人であった彼女の家の婿に入った時、三船は弱冠十八の紛れもない子供だった。年増年増と馬鹿にしていたのに、いつの間にかどうしようもなく惚れて、惚れて、泥沼に沈むみたいに囚われてしまったのを覚えている。
 べたべたべたべたくっついてくるくせに、いつだって彼女という存在の中の大部分を占めるのは、入り婿なんかより炯都の地で、二家門閥の鬼たちだった。それが憎らしいわもどかしいわで最後の最後までひどく気を揉んだが、そんな彼女を丸ごと愛した。
 だからこそ、彼女の愛したものを何に代えても守り抜こうと思った。どうすれば、この時代、この局面で二家門閥が生き抜いていけるのか、考えて考えて考え続けた。
 鬼姫を裏切るというのは、その結果導かれた結論だった。
 鬼師の座を捨て、鬼姫への忠誠を捨て、二家門閥は総員、ヒトに下ることとする。
 その結論がもとで、袂を分かった鬼も多くいる。仕方なく、命を奪う結果となった忠臣も居る。それでも、三船の決意が揺らぐことはなかった。
 後悔が一瞬でも頭をもたげたのは、綾の背反により娘との対立が避けられないとはっきりと悟った時のことだったと思う。
 一番守りたいものを守れないなんて、なんて皮肉だと思った。
 何度も綾に手を上げて、無理やり言うことを聞かせようとした。けれどもあの娘は、母によく似て人一倍頑固だった。
 時が止まれば良いと、子供のようなことを心の底から思った。妻が死にゆく時ですら、そんな馬鹿なことは思いはしなかったというのに。
 けれども無情に時は過ぎ、三船は娘もその両手からこぼれていくのを見送った。
 ヒトの下に降るという考えが覆ることはなかった。それが、三船自らが当主として選び取った答えだった。

 喉に冷えた空気が絡みつき、耳と頭がじんと痛む。
 共有施設棟の前を通り過ぎ、三船はセンターへと続く道をひた走っていた。
 背後の足音はまだ遠い。
 九重まで馬鹿な選択をしたのは予想外だったが、どうやら忠実な僕たる中原は、上手くやってくれたようだった。
 新しい鬼姫は、あまりに甘い。犠牲なしに成り立つものなど、ありえない。
 現に今、千日の説く夢は、三船という背反者を殺せなかったゆえに断たれようとしている。
 千日は、大局を見据えて動くことが出来ない。目先のことに捕らわれる。その甘さ、あるいはそれをやさしさと人は言うのかもしれないが、彼女の資質は鬼姫には不適格だ。
 鬼にはもう、少女期特有の夢見がちな幻想に付き合っている寸暇さえ、残されていない。
 センター六階の窓を射程距離圏内に捉えて、三船は大きく踏み切る。足に強い負荷が掛かり、重力に逆らって身体が矢のように狂いなく跳んでいく。ガラスにぶち当たる直前、両手を顔の前で交差させた。激しい破壊音を響かせて、そのまま屋内に雪崩れ込む。
 廊下だ。前方の角を曲がってしばらく行くと、所長室がある。
 ぎょっとした様子の戦闘員と目があって、三船は良く出来た愛想笑いを浮かべた。
「七福神内から、裏切り者が出ちゃったみたい。俺は所長に報告あるから、足止め頼むわ」

 センターから次から次へと銃を携帯した戦闘員たちが湧いて出てくる。おそらく、三船の差し金だろう。
 しかし、彼ら戦闘員たちの顔には戸惑いがあった。まだ事態が明らかになったわけではなさそうだ。
 若槻はきつく唇を噛み、物陰に身を潜める。こちらに気づいていないのが幸いだった。
 三船は筆頭四家の内の三船家の当主とはいえ、元は一家門閥の左家の出だ。三家門閥の右家の出である若槻より多少家格は上であるが、血筋による能力差は大してあるとは思えない。なのに、こうも差を痛感するのは、経験の差だろうか。それとも、懸ける思いの差とでもいうのか。
 それだけは、ないと誓って言える。言えるようになったはずだ。
(戻るか、それとも追う……?)
 千日は、欲しいものがあると言った。その中には、今こうして千日を背いた三船も含まれている。
 千日は追えと言うだろう。何がなんでも三船をふん縛って連れて来いと般若のような顔をして、命じるに違いない。あの鬼姫はそういう人だ。
 出来るなら、彼女の思いを優先させたい。けれどそのせいで彼女の身に何かがあったら、と考えずにはいられない。このヒトの作り上げた檻の中で、味方はあまりにも少ない。
 目の前の戦闘員たちを相手取ってセンター内部を目指したとして、十中八九、千日によるヒトへの“裏切り行為”は知れ渡る。ならば千日を連れて脱出するのが何にも先んじるべき若槻の役目だ。
 ふと、気配を感じて振り返り、若槻は目を疑った。
「九重さん! 姐さんはどうしたんすか」
 九重は肩で荒く息をしながら、若槻の横にぴたりと張りつく。
「陸に話つけるって。あの後、陸が来てね。僕は三船さんを任された」
「……先輩に?」
 更に後方に目をやると、中原の姿も確認できた。今はもう、こちらに攻撃をしかけようとはしていないようだった。迷子の子どものように途方に暮れた様子でただ突っ立っている姿を見ていると、闇夜に呑まれてしまいそうで手を伸ばしたくなる。中原の気持ちが、若槻にはよくわかった。
 中原がここにいるということはつまり、千日は今、海堂と二人きりという状況にあるということだ。
 どくん、と心臓がひときわ大きく鼓動する。
「陸はほら、僕らに理解はあるけどヒトだから、不安もあったんだけど。千日ちゃんに押し切られた」
 九重はそう言って、さながらサバイバルアクションゲームの舞台と化したセンター前の光景を眺める。
 海堂が来たと言うなら、おそらく安心して良いだろう。あの鬼狩りは、ヒトでありながら、上級鬼に匹敵する能力の持ち主だ。すぐさま鬼側につくかどうかはさておき、千日が危険に晒されるようなことがあれば、海堂は身を呈してでも彼女を守るだろう。
 海堂は情に厚く、口は悪いが心根はやさしい。彼のことは、ずっと一番近くで見てきた。七福神が結成されてから、とりわけ長い付き合いをしているのが、若槻と海堂だった。海堂は、若槻を仲間と呼ぶことに躊躇いの欠片も感じなくなっていたし、千日に対しても同様だと思う。
 彼はヒトであるが、若槻はあるいは同族の鬼より海堂を慕っている己を自覚していた。どういうわけか、海堂が鬼を憎んでいるということは知っている。けれども今回の千日の思惑も、彼女や自分が熱心に説得したなら理解を示し、きっと味方になってくれるだろうと信じていた。
「……三船さんは、難しいね。僕は凌ちゃんの回収に行くよ。あと撫子姫の奪還も試みる。出来れば脱出を楽にするためにここの警備システムも破壊したいけど、人手が足りないな。琢真はどうする?」
 研究棟に行くなら、戦闘は避けられない。九重一人では、凌と撫子両名の救出は困難を極めるだろう。若槻とバディを組めば、成功の確率は跳ね上がる。
 けれど。
 ――嫌な予感がした。
 得体の知れない不安が、噴出する。
 どうしてか、すぐさま千日のもとに向かって、彼女を抱きしめて、誰の手も届かないところに隠さなければならないような、そんな気がした。
 海堂が、千日を傷つけたりするなんて、そんなことはあるはずがないのに。
(それなのに、なんでこんなに胸がざわつくんだ?)
 若槻は、居住区を振り返った。もう居住区からは随分と離れて、センターのある手前まで来てしまっている。慣れ親しんだ、味気ない灰白色のコンクリートの外観を思いだす。それが、すぐ傍の消えかけの屋外灯の明滅と重なった。わけもなく、胃が引き絞られるように痛みだす。
「……すみません、九重さん」
 たったそれだけで、九重は全てを理解してしまったようだった。九重の目の縁に、笑い皺が刻まれる。若槻の頭頂部に、大きな手が置かれる。
「後で会おう。かならず」
 九重に強く頷き返し、若槻は元来た道を辿り始める。
 若槻は硬直した中原の横をすり抜けようとして、唇を噛み締めて足を止めた。
「はらたけ。お前が来てくれたらさ、姐さん、喜ぶよ」
「……琢真は、千日が喜ぶから千日の味方になったのか?」
 俯いたまま、問われる。若槻は頭を振って、中原に向き合った。
「俺が目指したい世界の形を、姐さんが示してくれたから。だから俺は、姐さんについた。後は、そうだな。何に代えても、この人を守りたいって思ったんだ」
 中原の顔が持ち上がる。びっくり、という言葉がこれほど似合う表情もなかなかないだろう。思えば、七福神の仲間たちはそれぞれ複雑な事情を抱えていたが、腹を割って喋ったことはほとんどなかったように思う。
 けれど今は、少し照れくさいような台詞も臆することなく言うことが出来る。この若い同族の仲間に、思いの丈が届けば良いと心の底から願いながら。
「それに、はらたけ。俺自身もお前と同じ志を抱えて生きたいって、そう思うよ」
「……お、おう」
 若槻の素直な言葉に動揺したように、中原は変な声音で変な構えをしながらそう応じた。
 その様子に噴き出しつつ、今度こそ若槻は中原に背を向ける。
「その気があるなら、はらたけ、ここのシステムぶっ壊すの、頼んだ」
「ゲ。それって、センターに突っ込めってことじゃん」
 千日と意見を違える、中原の主たる三船が居るのもセンターだ。近しい者との対立がどれだけ胸を抉られるような痛みをもたらすか、若槻は十分すぎるほど理解している。
 だが中原は悪態を吐きながらも、若槻の言葉を非難したりすることはしなかった。
「今度、うまい飯おごれよな」
 若槻を指差して、中原はそんな要求までしてくる。
 けれどそれが、中原の選び取るであろう答えの未来のような気がして、若槻は彼に背を向けたまま親指を立てる。喜色をたたえた顔を晒すのはやはりどこか面映ゆくて、そのまま駆け出した。


 千日は信じられない思いで、海堂の顔を凝視した。変わらず、その嗤笑は海堂に貼りついている。
 本心なのだと、悟らざるを得なかった。海堂にとって、鬼は命の尊厳の守られるべきイキモノではないのだと。
 千日から、底を知らぬ怒りが噴出する。相手の肌に触れれば、一撫でで肉を断つような、苛烈な怒りだ。
 逆上した千日の瞳を見返す海堂は、さして動揺した様子もない。それがひどく、癪に障る。
「分からせてやらねえと、駄目みたいだな」
 海堂は、言うなり千日のブラウスの袖を捲り上げる。先刻加減なく爪を立てられ、締め上げられ、変色した手首からは血液が染み出していた。
 無防備になったそこに、海堂の唇が、そして舌が触れる。這う。
「な、に――」
 赤い血が、海堂の唾液と混じる。執拗に、海堂は傷口をなぞる。血液を口に含む。
 酸素を求めて唇が離れたかと思うと、今度は吐き出される吐息の熱さに訳が分からなくなる。
 抵抗は全て、意味を成さなかった。まだ少年の面影を残したままのくせに、千日を抑えつける力は完全に大人の男のものだった。
 千日も鬼姫の端くれだ。他の鬼たちのように身体を鍛えていればまだ抵抗のしようもあったものだろうが、そんなことは今思ったところで後の祭りだ。
 初めは血管が青く透けて見える辺りを舌が行き来していただけだったが、やがて二の腕の辺りに歯が立てられ、皮膚が薄く破れる。
「や……ッ」
 痛みに耐えかねて、妙に甲高い声が出た。その声に煽られたように、ますます熱量の増した吐息が、ボタンが外されてブラウスの襟から覗いた汗ばんだ首筋にかかる。
 触れられた部分が、おかしな化学変化か何かを起こしたかのように熱くて、ぞくぞくと疼く。それでいて、芯から凍るみたいな怖気でがちがちになった身体は氷像のようにままならない。
 心臓の少し上。ひどく柔らかなそこを強く吸われて、赤い痕が浮かび上がる。腰が抜けてへたり込みそうになったのに、太ももの間に膝を差し込まれたせいでそれさえ叶わない。
 海堂が目を上げる。千日の見開いた瞳と、かち合う。
 ――征服者の目だ、と思った。千日の心も誇りも、すべてを踏み躙って、それに疑問一つ抱いていないかのような目。
 痛みと恐怖に引き攣った千日の表情を見ても、睫毛を震わせることすらない。
 千日の視界が真っ赤に燃え上がる。なけなしの矜持を掻き集めて、強く強く海堂を睨みつける。
 “鬼姫”が、こんな蛮行に屈したとなれば、鬼という種族そのものを貶めてしまう。そんなことが認められるはずがない。
 そんな千日の胸のうちを踏み躙るように、膝上のスカートから伸びた無防備な足に、海堂の指が触れる。内腿を辿る。
 身体の中心が、ぐらつく。思考に靄がかかる。視界が滲み、世界が淡く溶けだす。
 身じろぎした途端に、壁に掛けられたフォトフレームが剥がれ落ちる。足元でプラスチックが粉々に砕け散る。けれども何よりも鮮烈に千日の胸を突いたのは、壁に出来た日焼け跡だった。
 フォトフレームの下に隠れていた元の壁の色は、凌好みのマーメイド・ブルーの薄青で、名前の通りに泡になって溶けてしまいそうだと思った。
 日焼け跡から本物の色が浮かび上がるのとひどく似て、何層にも包まれていたはずの感情が罅割れてゆく。
 ぐちゃぐちゃになった心に渦巻いているのは、嫌悪だけではなかった。怒りだけでもなかった。
 剥き出しになった無防備な感情は、この場に不似合いすぎるほど不似合いで、早く誰にも見えないように隠さなければならないと強く思った。
 何故なら、その時千日が感じていたのは、まぎれもない、悦び、だった。
(――ばかだ)
 こんな風に身も心も命さえも蹂躙されて、自覚したくなどなかった。自覚するわけにはいかなかった。どうかしてる。あたしはどうかしている、と死にかけの理性が警鐘のように狂った金切り声を上げている。
 今度こそ、全身の力が抜ける。咄嗟に千日は、すぐ脇のベッドのヘッドボードに手をついた。海堂にもたれかかりそうになる身体を、無理やり引き寄せる。
 小刻みに震える唇を噛み締めると、生々しい鉄錆の味がした。
(……馬鹿だ、あたし)
 個人の感情は、あまりにも脆い。
 三船の言葉を今になって痛感する。現実に目を向けていたくなくて、硬く瞼が下りる。
 気を抜けば、海堂の襟首を掴んで縋りつきそうになってしまう。でも、何もかも忘れてただ一人の女になるには、千日はもう多くを知りすぎた。
 溺れるべきは、千日自身ではなく、この恋の記憶そのものだと理解する。
 千日は目を見開く。世界の色が、変わった気がした。否、おそらく、今まで見てきた千日を取り巻く全てが虚構だったのだ。
 血が騒ぐ。身体中をめぐる血液が、まるで炎になったかのようだ。しかしその炎は、今までみたいに理性をなくして猛る炎とは性質が違った。千日の理性の下に頭を垂れて、自在に千日という器の中を泳ぐ。
 海堂が息を呑む。震えが、千日へと伝わる。海堂の身体が、千日から離れる。
 海堂の眸に映った千日は、今までで一番、“鬼姫”の顔をしていただろう。
 海堂の顔がくしゃりと歪む。直後、異変を告げる警報が、けたたましくも虚しく辺りを劈いた。


BACK | TOP | NEXT