鬼の血脈 降誕と水死する恋[九]



 異常事態を知らせる警報が狂ったように鳴り響いている。
 スピーカーから神屋の声が流れだす。中原を含む鬼たちの背反が告げられ、速やかな鬼姫の拘束の命令が下った。千日と三船以外の鬼は殺害も止むをえないという趣旨の物騒な宣言さえももたらされる。
 しかしそれも後の祭りだ。当の中原はもう、センター内部に身を置いていた。
 センターに侵入するのは存外簡単だった。二家門閥左家の出である中原は、三船の従順な部下の顔をしていれば、ヒトへの背反など疑われることがなかったのだ。
 難なく三人の警備を気絶させ、中原は配線盤が格納してある電気室に忍び入る。十秒ほど首を傾げて眺めてみたものの、何をどうすれば良いのか分からない。
 無理やりコードを引きちぎり、電源らしきスイッチに思いきり拳を叩きつける。
 フッと電気が消えて、警報が止まる。ビンゴだ。
「やりぃ!」
 思わずガッツポーズを取って声を上げた。興奮に高揚する胸を抑えつけて、電気室を後にする。たしか同じ階に中央監視室があったはずだ。監視カメラの配線は、たしか電気室の別系統のものが使われている。ここも叩かなければならない場所だ。
 停電により、既に辺りは騒がしくなっている。懐中電灯の光が時折前を横切って、そのたびに荒々しい足音が中原を脅かした。幸い、物陰で息を潜めていると、ヒトは勝手にどこか遠くへ行ってくれる。まだヒトの目は暗闇に慣れていないらしい。鬼はヒトに比べて夜目が利く。中原自身、小柄で俊敏性に長けていることも幸いした。
 暗闇の中を猫のように滑り、中原は中央監視室を視野に捉えた。
 周囲をうろついている戦闘員が五名、監視室前の警備が二名、中にはおそらく二名の監視員が居るはずだ。
 大々的に動けば、成功は見込めない。誰かが大声でも上げた時点で、アウトだ。
 かと言って、暗闇に紛れて一人一人意識を奪うのも、限度がある。
 けれども、今ここで自由に動けるのは多分、中原だけだ。
 正直、千日につくというこの選択が正しかったのかは分からない。主たる三船の考えも理解できるし、綾がヒトを蛇蠍のごとく嫌う理由も痛いほど分かる。まだ、中原には何一つ確かな答えなど掴めていない。
 だが、ここで己の中に芽生えた強い衝動を殺せば、きっと後悔すると思った。その思いだけを頼みに、今ここに立っている。
 帰路のことは、考えなくて良い。ともかく、監視室に入ってシステムを破壊さえすれば、後はもうこの建物に用はない。窓を割って跳び下りるなり、隣の建物に跳び移るなり、朝飯前だ。
 息を吸い、頭の中で監視室侵入までの動きをシミュレートする。
 迅速かつ的確に、中原はシミュレーション通りに戦闘員と警備を気絶させた。監視室に入るなり、驚いた監視員たちのこともぶん殴る。
 ともかく、早くここから立ち去らなければ、中原の命はない。
 そう思って、何気なく数十はあるであろう画面の数々に目をやった中原は瞠目した。
 沢山あるカメラの映像の中からそれを見つけてしまえたのはきっと、それが誰より身近で誰より大切で誰より会いたい人物だったからに違いない。
「……ウソだろ、――綾」
 驚愕に目を見開き、茫然と呟いた中原が見たのは、三船の娘であり、密かに想いを寄せていた少女が、ヒトの檻であるこの地に降り立ったその瞬間の姿だった。

 所内に鳴り響いていた警報は、言うまでもなく研究棟にも及んでいた。
『――繰り返す。七福神構成員である天財千日及び若槻琢真、九重律、中原毅が我々人類に対し、背反行為を働いた。総員、所内に潜む対象を速やかに確保せよ。抵抗するようならば、天財千日以外の鬼の生死は問わない。……鬼姫を逃がすな』
 辺りが真っ暗になるとともに神屋の声が途切れ、警報も止んだ。ほんの二、三分ほど前のことだ。凌は舌打ちをして、目の前の鉄格子を睨みつける。
 この監獄の中に入れられてからというものの、千日の動向を探ることは叶わなくなった。けれども凌は、たいした戸惑いもなくヒトに対する鬼姫の反逆という大事件を飲み下す。
 そんなことは問題ではない。重要なのは、千日の身が危機に瀕しているらしいという事実、ただ一点のみだ。
 高天原千夜から凌に間諜としての命が下ったのは、千日と出逢う二年ほど前のことだ。
 凌の使命は、次期鬼姫である天財千日の側近くに侍り、全ての脅威から彼女を守り抜くこと。そして時機が来たら、千夜に千日を引き合わせ、ヒトの社会に囚われた彼女を鬼の方へと引き寄せること。
 千日がヒトに対して背反行為に打って出たということは、その試みはほぼ成功したと見て良いだろう。
 そして、ヒトかぶれの出来損ないや臆病者の集まりにしか見えなかった鬼を背いた鬼たちも、どうやら考えを改めて千日に従っているらしい。それが、正道だ。
 一方で、三船はこの期に及んでも、態度を翻さないらしい。あの鬼とも呼べぬ男のことを思うと、吐き気さえも込み上げる。
 拳を握り締めた凌の耳に、銃声が過ぎる。どうやら研究棟の周囲でも小競り合いが始まったようだ。銃弾が飛び交い、悲鳴が散り、怒号が砕ける様は殺伐として乾いた空気を孕みながら、何よりも生々しく肉体を蝕む。
 監房一つ隔てた暗がりで、少女が息を呑む気配がした。三家門閥長姫――撫子だ。
 傷一つつかないよう、大切に大切に育てられたはずの彼女は、おそらく“戦場”を知らない。
 桐谷家がひた隠しにしてきた撫子が鬼狩りに囚われた顛末は、この監獄に入れられて間もなく、凌の知るところとなった。彼女が毎日のように癇癪を起こすので、嫌でも耳に入ってきてしまったのだ。
 愚かしいとしか言えない彼女の行動の背景に、同情の余地はない。
 漏れ聞こえる嗚咽を、煩わしいとさえ思う。
 喧騒が激しいものになっていくにつれ、扉を隔てた向こうから看守を務める所員たちの慌てふためく声が緊迫感に輪をかけて聞こえてくる。
 待望した、謀反の時が来たというのに、ただここに這いつくばっているしかない己の身が厭わしい。今、自由に動くことが出来たならば、看守たちの喉笛に残らず食らいついて、すぐさま千日の元に向かうのに――。
 この謀反が、成功すれば良いと思う。思うしか叶わないのが、ひどく歯痒い。
 成功さえすれば、ここで一人静かに誰からも惜しまれることなく死んでいっても悪くないと思える。綿貫の血脈を引く者としてヒトに対し一矢を報い、この命を鬼の未来のために使って死んだと、晴れがましくすら思えるだろう。
 だが、せめて母だけは無事に、この檻から逃れてほしいと思わずにはいられない。
 母は、娘が間諜としての命を受けてからというもの、一蓮托生を掲げて凌に寄り添ってきた。
 凌は、一家門閥の直系長姫――高天原血統の姫に次いで鬼という種族の中で敬われるべき血筋の女鬼だ。本来ならば、こうして最も命の危険に晒される間諜としての役目を拝命することなどなく、蝶よ花よと大切に育てられる存在である。それこそ、撫子のように戦の何たるかも知らずに。
 それが、何故このような事態になっているかと言えば、二十年前のお家騒動を発端とする一連の事件に遡らねばならない。五百年もの間、高天原は鬼という種族の頂点であり続け、また綿貫も次位血統であり続けたが、高天原の覚えめでたかった綿貫家内部から主家に対する背信者が出たのはそれが初めてのことだった。その事件は、綿貫家の敷地の外までには及ばず、内々のうちに処理された。しかしそれが、公然の秘密と成り果てたことは言うまでもない。
 これが、綿貫家の家長が凌の父――綿貫惣介となって間もない頃に起きた事件の大筋だ。
 父は、その配下の鬼たちは、以後も変わらず高天原に忠義を尽くし続けた。一家門閥の誇りは地に落ちたが、やがて事件のほとぼりは冷め、今再び綿貫家は、次位血統の誉れを取り戻しつつある。
 けれどもその代償は大きかった。
 事件の二年後に誕生した待望の赤子は次位血統の鬼姫候補としての権限を剥奪された。その赤子が、凌だ。
 どこまでも高天原に忠実な綿貫は、凌を男児のように扱い、育てた。母である蝶子は、夫のそんな振る舞いに憤懣やる方ないといった態度をこの十八年の間崩していない。
 自身の特異な身の上を、悲観して嘆くつもりはない。
 男だったならばと女の身を厭うことはあるけれども、男として振る舞うことはむしろ、性に合っていると思う。誉れ高き綿貫の血脈を引く者として、鬼のために高天原のために命を使いたいとただひたすらに願う。ともかく、そういう入り組んだ事情の元に、凌は今この場に居る。
 一際大きな爆音が轟く。咄嗟に凌は、顔を伏せてその場に蹲った。直後、凌と撫子が収容されている二号棟の地下室が地震でも起こったかのように揺れ、爆風が押し寄せた。向こうでは、狂乱状態に陥った撫子が、意味を成さない言葉を発し続けている。
 天井からパラパラと埃だか塗装だかはたまた扉の残骸だか分からないものが降ってきて間もなく、凌は咳き込みながら恐る恐る顔を上げた。
 もくもくとした煙に包まれながら、一筋の光が刺し込んでいる。あの辺りには確か、地下監獄の扉があった。テンキーロック式の鋼鉄製の扉は、今や無残にぶち抜かれ、見る影もない。
 土煙の中に目を凝らしていると、やがて見知った姿が浮かび上がってくる。果たして凌の母――蝶子だった。蝶子は腕っ節こそ強くはないが、ヒトの生み出した兵器の類を扱って戦うのが彼女の流儀だ。その後ろには、何故だか九重が付き従っている。
 大きく息を吐いた蝶子の脇を抜けて、九重が凌のほうへと駆け寄ってくる。その手には白銀に光る鍵のようなものも見える。
「怪我はない……? ああ、痩せたね」
 鍵を開けながら器用にも凌に目を向けた九重は、痛ましげに目を細めた。
「天女――否、鬼姫は?」
 すかさず千日へと水を向けると、九重は苦笑して凌に手を差し伸べた。
「多分、陸が一緒だ」
 九重の応えに、凌の端正な眉が跳ね上がる。差し伸べられた手を無視して、凌はふらつきながらも立ち上がった。
「鬼姫を、鬼狩りの元に残してきただと?」
「……勿論渋ったよ。けど、千日ちゃんの言葉は、鬼姫の言葉だ。それに、千日ちゃんは君のことも本気で欲している。彼女の思いは無下には出来ない」
 九重はそこで一端言葉を切った。
「それに陸は……多分、千日ちゃんのこと――」
 九重が俯くと、思わしげな瞳に前髪で紗が掛かった。ただでさえ社交性に難がある凌には、到底読み取れない表情だ。
 ほんの僅かに降りた沈黙を、コツリと床を踏み鳴らすハイヒールの場違いな音が掻き消した。蝶子は、九重の手から鍵を奪い取るなり、撫子が閉じ込められている監房の鍵穴にそれを突っ込んでがちゃがちゃ回す。震える撫子の背中を抱いて、立ち上がらせる。
 そのまま、モデルか何かのように気取った動作で、こちらを振り向いた。
「凌、九重の坊や。立ち話は後にしてはいかが? わたくし、痺れを切らしてうっかりあなたたちに砲撃でもしてしまいそうですわ」
 そう言ってにっこりと微笑んだ蝶子のシルバーリングの光る左手には、さっきも扉を破壊するのに使用したプラスチック爆弾が顔を覗かせている。沸点の低い蝶子のことだから、今すぐにでも点火しかねない。
 たまらず凌も九重も立ち話を中断した。
 一刻も早く、鬼姫の元へ馳せ参じなければならない。

 鬼姫の反逆という驚くべき知らせは、唯一寝返らなかったという鬼家二家門閥の主である三船によってもたらされた。
 雉門はというと、驚きはないでもなかったが、やはりという思いの方が上回る。
 自らの主の横顔をうかがうと、ひどく間の抜けた顔を晒した次の瞬間には、含み笑いをして鬼狩りや戦闘員への指示を飛ばしていた。例外なく、雉門も神屋直々に千日を捉えるようにとの命を下され、居住区へ向かってひた走っている最中だ。
 目に浮かぶのは、昼下がりに見た、白装束とおびただしい血痕のコントラスト。ああこれが、“鬼姫”の行く道なのだと否応なしに思わされた。
 御三家の一角たる狗馮の嫡男、一個下の幼馴染が遺した忘れ形見。それが、千日だ。
 七年前に彼女が両親を亡くしてからずっと、傍らでその眩しいくらいの成長を見てきた。
 千日のふた親が他界したのと同時期に、先々代の鬼姫・千弥も崩御した。高天原には千夜が君臨することとなり、争いの火種となる千日は高天原から遠ざけられた。禁忌の鬼姫と鬼狩りの血を引く千日を排除しようとする勢力もあったようだが、高天原血統の生き残りはその時千夜と千日のたった二人だけになっており、おまけに千夜の容体が悪化の一途を辿っていたので、千日が殺されることはなかった。
 その高天原の隙に乗じて、ヒトは千日を懐柔していくことにした。その先鋒が、雉門だ。誰に命じられるでもなく、自ら志願してのことだった。扱いにくい監視対象に、雉門は随分やきもきさせられたものだ。
 中学に入る頃には、千日も大分雉門に心を許してくれるようになったが、彼女を変えたのは、中学三年生の時に出来た友達だという少女によるところが大きい。咲穂、という名の少女だ。何べんも千日の口をついて出てきたから、覚えてしまった。
 ともかく千日は、ヒトの思惑通り、ヒトに対して従順な姫位継承者として運命の日を迎えることとなった。『天女計画』の構成員となることが確約されていた当時の鬼師・三船により、高天原が千日獲得に動き出した報がもたらされ、七福神が本格始動することになった。それが、あの春の彼岸の日に起こった出来事の全貌だ。
 あの日、千日の運命は流転した。否、それは天財千日というヒトと鬼の混血児がこの世に生まれ落ちた時から、決まり切っていた血の宿命なのかもしれない。
 雉門の名を冠した己が、鬼狩りとして生きるさだめを背負い生を受けたのと同じように。その檻はたやすく雉門を絡め取り、思うようにならない現状を嘆くのだけは人一倍上手くなった。
 千日の場合は、ヒトと鬼の両方の業を負っているから、さだめの枠は一つでなかった。二つの檻は欺瞞と方便とに満ち、その間で彼女は何度も身を裂かれそうになっただろう。己というものを手放してしまえたらずっと楽だったろうに、千日はそうはならなかった。そればかりか、二つの檻を得ながら、そのどちらでもない道を選ぼうとしている。
 狗馮一斗と高天原千里は、さだめの檻を抜け出し、死んでいった。
 身に余る望みは周囲に沢山の病の種を振り撒いて滅びを招き、後には灰さえ残さず消えてしまう。ヒトと鬼の別なく、病の種は、もうそこら中にばら撒かれている。
 太古より続いてきた高天原の血の系譜は今、その末裔である千日によりさだめの檻を逃れ、新たな奔流を生もうとしている。
(遺伝子って奴を恨むぜ。……なあ、一斗)
 大人しく、こちらの思惑通りにヒトの枠に嵌まっていれば、あれほどあの娘が苦しむことはなかった。
 口の端を上げた雉門は、背後から聞こえたざわめきを振り向いた。
 すぐさま横に飛んで、共有施設棟の建物の影に隠れる。
 見れば、所員五名と若槻が乱闘中だった。戦う姿を初めて目にしたときと同じように、若槻は今にも泣き出しそうな顔をして、返り血を浴びている。けれど以前より、強く引き結ばれた唇と、何より強固な意志を宿した目に、一瞬気圧された。
 雉門は軽く舌打ちをして、息を整えた。
 冷気を蓄えたコンクリートが、むきだしの手のひらの熱を奪っていく。膿んだ思いすら凍らせてしまいそうなその感覚を振り切るように、拳を固く握りしめた。
 無性に、煙草が吸いたいと思った。妻と結婚してからこっち、周囲の期待をあっさり裏切って禁煙に成功したが、どうも今宵は口寂しくてならない。
 若槻の様子を見るに、どうやら千日はまだ居住区かどこかで油を売っているらしい。
 ならば、雉門のやるべきことは一つ。誰にも先んじて、千日の身柄を確保することだ。
 若槻は、飛んで火にいる夏の虫だ。どういう状況であろうが、仲間を人質に取られでもしたら、千日は必ずこちらの要求を呑むだろう、、、、、、、、、、、、、、、、、
 所員を難なく転がした若槻は、目もくれずにこちらに向かって走って来る。
 雉門は、軽く笑みを含んだ顔で、刀の柄に手を掛けた。


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