鬼の血脈 降誕と水死する恋[十]



「……どうやら、ネズミが入り込んだようだね」
 配線系統がやられたらしく、停電を起こした室内にフッと電気が灯る。非常電源回路に切り換わったらしい。もっとも、すべての機能が復旧するわけではない。
 対鬼用の警備システムはほとんどが作動を停止したまま、ついでに監視カメラも所内に設置されたうちの三分の一しか稼働していない。
 けれども研究所の東部に位置する演習場に降り立った外敵の姿を、無機質な目は確かに捉え、映し出していた。
 黒い巨体の群れの中心に、その小さな姿はあった。
 三船が、彼女の姿を見間違えるはずがない。自身の娘の姿を。
 上級の人形鬼の精鋭ではなく、夜鬼を数十頭従えてやってきた辺り、彼女の単独行動の線が濃厚だ。あの夜鬼はおそらく、九重配下の夜鬼だ。四家門閥の長を務めるあの狸爺には、この予期せぬ九重の寝返りが読めていたとでも言うのだろうか。
 三船は、愕然と瞠った目を、ゆっくりと閉じる。迷いを振り切るように、再度開く。
「そのようで」
 乾いた口内から吐き出された言葉は擦れ、濁り切っている。
 そうこうしている間に、画面に別の人物の姿が映り込んだ。――若い。
 一瞬中原かと思ったが、背格好が似ているだけで、全く正反対の性質の持ち主だとすぐに知れた。鬼狩り御三家の猿女家の嫡男で、神屋の秘蔵っ子と名高い猿女菊助――猟奇的な狩りを好んで行う、戦闘狂だ。
 あれは、綾より強い。綾はまだ、殺戮者のようには戦えない。これからもきっと、ずっとそうだ。そういう風に、育ててきた。そういう風に、育ててしまった。
「君の進言どおり、天女様には僕が首輪をつけ直しに行こう。さっき寅を先に行かせたから、仕損じることはないと思うけどね。君は、菊の支援に行ってくれるかな。君の一族についた汚点を拭い去る、良い機会だ」
 神屋は流れるような所作で執務机を離れ、棚に立てかけられてた日本刀を手に取る。
「君が君の家の恥をすすげば、僕も三船の血族を悪いようにはしないよ」
「……さっすが。話が分かるぅ。しょ・ちょ・う」
 いつもの調子を取り戻して三船がぺらぺらと中身のない発言をかましている間に、神屋は脇をすり抜けて行く。
「君のように、他の仔たちも利口なら良いんだけどね」
 ――まあ、どのみち、利口にならざるを得ない。
 冬の息吹よりなお冷たい神屋の囁き声が、三船を貫く。
 心臓が、鷲掴みにされたかのようだ。
 鬼を狩る者とはいえ、年下のろくでもない男に畏怖さえ覚えてしまった自分に腹が立つ。腐っても鬼狩りの首領なのだと、思わせられずにはいられない。
「本当に、天女様は一斗によく似て薄情だなあ。羽衣さえ、顧みない」
 前言撤回だ。神屋幸光という男が、真に人を恐怖させるのは、彼が正真正銘狂っている、、、、、からだ。
 どろりと濁った底なし沼じみた声音に、悪寒さえ覚える。見開いた瞳は過剰なまでに光を取り込み、狂気を孕んで、多分きっとまるで違う世界を見ている。
 彼の目には、ここにはいない反逆の旗印を上げた千日の姿が、千日の姿だけが克明に映し出されているのだろう。
 反射的に、身体が、本能が、鬼狩りを斬れと強く命じてくる。鬼姫を守れ、鬼姫に跪いて赦しを乞え。いくら抗おうと、鬼の血脈を引いている以上、一生付き纏う感覚だ。
 綾も、千日も、中原も、今まで出逢ってしまったしがらみすべてが、わずらわしい。
 それでも、三船の当主になってしまった時から、覚悟は決めている。たった一つ、守りたいものが守れれば良い。だからそれ以外のものは笑って切り捨てる。このまとわりつくような重み全部、断崖から突き落とせる。
 思考することをやめれば、この動乱の時代を生き抜くことなど出来ない。けれども逆に思考に溺れれば、這い上がることも出来なくなる。三船は口角を引き上げ、今の主である人に頭を垂れる。
 向かうのは、研究所東部、演習場のある地点。綾と猿女が交戦しているそのただ中だ。
 今度こそ、己の太刀は綾の血を吸うのかもしれない。そう思うと、三船の吸気音が乾きすぎて弾けたような妙な音を撒き散らした。
 一瞬、何もかもが潮騒の中に消える。三船の家に婿入りするよりも前の、生家の程近くにあった浜辺で、ただ自分とその周りの小さな世界のことだけ考えていればよかった頃の、懐かしい記憶だ。そんな幸せな幼年期は、随分前に終わりを告げた。
 三船は、強張った浅い呼吸を繰り返し、所長室の扉に手を掛ける。
 心臓が捩れたような鈍い痛みが途切れることはない。妻を失った日からずっと、だ。この痛みをないものにすることは出来ない。選ばなかった分の、手のひらからこぼれ落ちた者たちの重みは、なくなってもずっと癒えない傷のように刻まれている。そうやってこれからも刻んでゆく。それが、三船が生きるということだ。
 ぱたん、と後ろ手に扉を閉める。酸素をうまく取り入れてくれない身体が頭痛を訴え出した。無理やり荒く肩で息をする。腰に佩いた太刀の感触を確かめる。ヒトの血も同族の血も吸い尽くしてきた太刀の柄が、ひどく手のひらに馴染む。
 ――いつからこんなに、生きづらくなった?
 不意に意味のない問いが、胸の内から転がり落ちる。その問いが肺腑に落ちて溶け切るより早く、三船は六階の窓を力の限りに蹴破った。

 喧騒が聞こえる。鬼姫への包囲網は狭まりつつある。だが、突如出現した夜鬼の守護は固く、未だ千日の部屋に新たに辿り着いた鬼狩りの姿はない。つい先刻、非常電源に切り替わった直後に入った放送で、綾と数十頭の夜鬼の侵入が知れた。
 夜鬼たちの抵抗は鬼側に幸いしているが、どうして綾率いる鬼の一団が今この瞬間に研究所に現れたのかが解せない。
 経緯はともかく、この好機を逃す手はない。けれども、目の前の“鬼狩り”がそれを黙って見過ごすはずもなかった。
 後ずさった千日の手を、海堂が取る。反射的に、身体が強張る。為す術もなく、引き寄せられる。
「――なあ」
 耳元に、上擦り掠れた声が落ちる。左の頬を、大きな右手でそっと包み込まれる。
「言えよ。お前はヒトだって。こっち側だって。……言えよ」
 懇願めいた、縋るような響き。命令調のくせに、泣き出しそうな幼子めいて千日の聴覚を震わせる。
 嗤笑で取り繕っていたはずの膜が剥がれ落ち、剥き出しの本心とも言うべきものが千日の皮下に触れたような気がした。
 だからこれは、海堂への拒絶なのだと――決別なのだと、はっきり理解していた。
 千日は、頬に触れる海堂の手を引き剥がす。静かにゆっくりと首を横に振る。
 左の手首の拘束が、呪縛が解けたみたいに緩む。ひと呼吸分の間を置いて、海堂の手が千日の二の腕を引く。突き飛ばされたと思った時には、二人分の体重でベッドのスプリングが沈んでシーツに大きな皺が寄っていた。
 仰向けに転がされた千日の肢体に、海堂が圧し掛かる。
「お前が化け物どもの親玉に成り下がるなら、俺はお前を狩る」
 鞘から解放された抜き身の剣が、首に突きつけられる。腹部に馬乗りになられ、その上得物が肌に触れているせいで、微動だに出来ない。
 海堂の瞳が、“鬼姫”を見つめた。これまでで初めてのことだ。今まで海堂は、千日を鬼姫としてではなく、天財千日という一人の人間として扱ってきた。それが、たった今崩れた。
 海堂の眼には、千日ではなく“オニ”という記号が映っている。それが千日であった器と知りながら、全てを忘却することも出来ない苦しみの片鱗すら宿しながら、もう今までと同じように千日を見ないだろうと確信させる瞳で、こちらを見下ろしてくる。
 剣先が喉首の表皮を裂く。ただの脅しなどではない。海堂は躊躇いを振り払って、千日の首を切り落とすことが出来る。
 それが海堂という人間の覚悟なのだと悟った。
 千日が心の底から鬼とヒトの共存を望むのと同じくらい、海堂は心の底から鬼とヒトの共存は不可能だと思っている。
 千日のひび割れた唇が戦慄く。恐れもあったが、千日の胸に沈澱して思考を錆びさせてゆくのは、そんな単純な感覚ゆえではない。もっと違う事実を飲み込んでしまったせいだった。
 今こうして千日を狩ろうとしているのも、憎悪や怒りに任せた衝動的な行動ではないのだ。もし時間を巻き戻せるとして、千日が何万通りの言葉で行動で海堂を求めたところで、海堂の考えが覆ることはない。
「なんで……」
 意味のない問いだと分かっている。反面、何に対する「なんで」なのかも分からない。けれども、そう問わずにはいられなかった。
「鬼狩りと鬼姫が、分かり合えるはずもなかった。そういうことだろ」
 切っ先が、更に肉に沈み込む。あまりの激痛に、泣き叫ぶことも出来ない。
「鬼姫、最後だ。もう一度だけ聞く。ヒトの下で生き永らえるか、それともここで種族ごと消え去るか」
 流血が首を伝う感覚に、すぐそこに迫った死の気配を感じる。
 ――ふざけるな、と思った。
 それは海堂に対する憤りでもあったが、何より自分に向いた怒りだった。
 千夜が、そしておそらく先祖代々の鬼姫が、命がけで守ってきた血脈を、ここで絶やして良いはずがない。鬼姫が、これほど軽んじられて良いはずがない。こんなにも愚かしく一方的に蹂躙される鬼姫など、居ない方がましだ。
 千日の手が、海堂の突き立てた刀の刃の部分を握り締める。ぐっと力を込めて刀を押し返すと、手のひらの皮膚が裂けて、おびただしい血が流れ出す。
 海堂の瞳が、その血潮に釘付けになる。まさか千日がこんな真似をするとは欠片も思っていないようだった。でもあいにく、海堂が言う“バケモノ”の血は、こんな傷など物ともしない。
 海堂が刀を突き立てる力と、千日がそれを押し上げる力が拮抗する。やがてそのつり合いに不均衡が生じる。
 勝ったのは、千日だった。
 刀が弾き跳び、部屋の隅の壁にぶつかって落下する。
「あたしたちは、こんな卑劣なやり方で踏み躙られて大人しく従うほど、落ちぶれちゃいないの」
 吐き捨て、右手を思いきり振り払う。血飛沫が海堂の視界に飛び込み、膝立ちの態勢が崩れかける。千日が勢い任せに身を捻ると、狙い通り海堂がバランスを崩した。その横っ面を、思いきり張り飛ばす。
 海堂の下から抜け出して立ち上がり、千日は迷わず窓際へと駆け寄った。素直に三号館の出口に向かったところで、鬼狩りの包囲網に自ら突っ込むことになるのは目に見えている。
 屋根伝いに研究所の外を目指す。決心して、目覚まし時計を放り投げて窓をぶち破る。
 けれども、
「――そこまでだ」
 束の間の形勢逆転は、無情に響いた声によっていとも簡単にひっくり返された。
 驚いて振り返った千日の瞳に、雉門と、彼に羽交締めにされ、更にはナイフを突き付けられた若槻の姿が映し出される。
 千日は正しく、その脅迫の意味を理解した。両手を上げて、窓辺から離れる。
「……すみません、姐さん」
 頭から血を流して、若槻が呟く。目が合うと、彼の眸が信じられないくらい大きく見開かれた。
 千日は血塗れな上、服も随分乱れている。無理もない。
 若槻の目が、千日から海堂に向く。疑いと怒りと、そんな訳ないと一縷の希望を繋ごうとする若槻の視線を意識しないわけがないだろうに、海堂は手の甲で顔に掛かった血飛沫を拭いながら淡々と呟いた。
「助かりました。雉門さん」
「いいや。怪我は……?」
「俺は特には。鬼姫だけです」
 その答えを聞いて、雉門が海堂から千日に焦点を切り換えた。
 その眼鏡の奥の瞳を、千日は思いきり睨みつける。
「陸。気持ちは分からんでもないが、決定権は神屋さんにある」
 暗に海堂の勝手な行動をたしなめて、雉門は千日を手招く。
「千日、おいで」
 むっつりと黙り込んだままの千日の代わりに、若槻が声を荒げた。
「姐さん! 来ちゃ駄目です! 逃げてください。貴女なら一人でも……!」
 言い募る若槻の喉骨に、ナイフが食い込む。
 千日は、両手を上げたまま、つかつかと雉門の方へ歩み寄る。出血がひどいせいか、頭がくらくらして意識が宙に浮いている気がする。
「良いけど」
 そこで言葉を区切って、千日はぐるんと反転して海堂を指差した。
「こいつをあたしに近づけないで」
 言って、少し怯えたように自身を掻き抱く。
 千日を拘束しに掛かろうとしていた海堂の動きが止まる。
 おあつらえ向きに不自然にはだけた胸元からは、その痕跡、、までもが覗いている。
 雉門は千日の養父と言って差し支えのないほど、近しい存在だった。おまけに、ひどくお人よしだ。ヒトに牙を剥いた鬼姫とはいえ、不憫に思って娘から男を遠ざけようとしてくれるかもしれない。それにつけ込まない手はなかった。
 海堂の拘束を逃れたところで、若槻が人質に取られている以上、自由には動けない。けれども、少しでも有利な状況に身を置いておけば状況打開のための道も開けるかもしれない。
「元々そのつもりだった。だからそのふくれっ面、いい加減直してくれや」
 ブサイクになるぞ。
 余計な一言はついたが、案外、素直に雉門が頷く。軽口に見えて、どこかいたわるような響きだった。
 かろうじて残っていた良心が、ちくりと痛む。
「……どういうことですか、こいつの言うことなんて聞く必要ないです」
 少し苦しげな表情を噛み殺して抗議の声を上げた海堂に対し、雉門は何てことない様子で笑う。
「お前さんは下の鬼連中を頼む。なかなか苦戦を強いられててな」
「でもそんなの、鬼姫が大人しくするよう命じれば従わざるをえません」
「こんな乱戦状態で連中の前に千日を引きずり出せば、犠牲を顧みないで特攻してくるような連中にみすみす鬼姫奪還の隙を与えることになる。まずは連中の手が届かないところに隔離しなきゃならん」
 その説明に、渋々海堂は納得したようで、三面鏡の下に転がった日本刀を拾い上げる。
 海堂の視線が自分から違うものに向いたことで、千日は無意識に殺していた吐息をようやく吐く。
 気が抜けたのか、意識に白い靄がかかり始める。血を流しすぎたようだ。
「陸、応急処置と止血頼めるか」
「い、いらない! こんなのすぐ治るもん」
 雉門の言葉に仰天して、千日は慌てて声を上げる。
 海堂に触れられたくないというのは打算塗れの思考の結果、導き出された言葉であったが、実際本音でもあった。
「そうかもしれないが、お前さんのそんな姿を見るのは、ちと辛い。それに、万が一傷でも残ったら、俺はかなしいよ」
 眼鏡の奥の一重の目を更に細めて、本当に悲しそうな表情をする。
 これくらいの傷、前に一条高校で受けた傷に比べれば大したことはない。すぐ治る。きっと千日は、頭と胴体を切断でもしない限り、死ぬことはない。
 でもそれを分かっていて、雉門はそんなことを言うのだ。万が一の可能性を憂えて、自分が傷つけられたような顔をするのだ。
 長年の付き合いをしてきたから、これが紛れもない雉門の素直な心情なのだと分かってしまう。
「……じゃあ、寅さんがやって」
 千日の言葉に雉門は一度目をぱちくりとさせて、すぐに海堂を招き寄せる。
 若槻を海堂に引き渡し(その瞬間、若槻が海堂を噛み殺しでもしそうな目をしたのを、千日は見た)、雉門は千日のぼろぼろの身体に適切な処置をしていく。
 その間、千日は服を出来る限り自然に見えるように整えマフラーを処置の終わった首にぐるぐる巻きにし、三号館の外に耳を澄ませていた。先ほどから、鬼狩りと夜鬼が争う気配がしているが、特に大きな変化はないようだ。己の愚かさが招いた結果ではあったが、九重か中原辺りが異変に気づいて駆けつけて来てくれないかと都合の良い自分勝手な期待に縋るほかない。
 雉門は止血を終えるとすぐに立ち上がり、海堂から若槻を引き取る。
 刹那、雉門が俯いたままでいる海堂の頭を軽く小突いた。それからくしゃりと海堂の寝癖のついた黒髪を掻き撫ぜる。
 泣き出すのを堪えるような顔をする雉門の表情は、位置的に千日にしか見ることが出来なかっただろう。こんな雉門の顔を、千日は知らない。
 訳が分からないのは千日だけでなく若槻や当人である海堂も同じだったようで、三者三様に疑問符を浮かべていたが、結局誰一人言葉を発しないまま、部屋を出た。


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