月姫 鎌鼬の残痕[十一]



 生い茂る木々の陰より現れたそれは、満月の瞳を認めると、そっと微笑を返した。瞬間、満月はその微笑みに気圧けおされたことを自覚する。男――疾うに記憶からこぼれ落ちてしまっていた茶褐色の毛髪は、まさに掘り起こされた始めの日の記憶と違わぬものであった。あの日、商店街でちらりと見かけたのは、多分、この男だ。
「初めまして、月姫様」
 風を揺らした声は、若い。
 男は、満月が何者であるかを知っている。この国で満月が遭遇した人形をした者は、月神と環を始めとする月の精だけだった。輪国で異国の服を着た人間の女といえば、「月姫」であることが当然なのかもしれないが、相手がこちらの素性を知り、こちらが何も知らないというのは、あまり面白くない。それが、このような正体不明の人物ならば、尚のこと。
「失礼ですが、貴方は――?」
 男は、微笑を崩さず、一歩こちらに踏み出した。木漏れ日が、優しく男の顔を照らし出す。その様に、満月は既視感を抱いた。この、空恐ろしさは初めて感ずるものではない。どこかで――どこかで満月はこの感覚を味わった。それは、いつのことだっただろう。
「これは失礼しました。輪国日宮殿にて、日神彩章さいしょう様にお仕えしている日御子ひのみこ晴尋はるひろと申します」
「……日神――!」
 どくんと心臓が鳴ったのを上手く隠せずに、満月は晴尋を見上げた。日神――先刻認知したばかりのその言葉だが、それはきっと満月がずっと追い求めてきたもの。恐らくは真実を知るために、不可欠である存在。
「どういう、用件でしょうか」
 低く問うた満月の顔を、晴尋は興味深そうに一瞥する。
 「月姫」である満月にこうして接触してくるということは、何か重要な意味があるのだ。輪国民の現状を鑑みれば、昨今、日月は対立関係にあると推測するのが普通だ。
「話の分かる方で助かります」
 晴尋は笑みを張り付けたまま、そう口にした。この晴尋という男……読めない。量るような満月の視線をいとも簡単にかわして、自分のペースに巻き込もうとする。
「単刀直入に言いますと、貴方にお帰りいただこうと思いまして」
 あまりに淡々と告げられた言葉の意味が、分からなかった。満月は暫しの間、思考回路が停止したのを自覚しつつ、遅れを取り戻そうと必死で頭を回転させる。
「……どう、いう――?」
 それが、限界だった。
 帰るとは、どこに。頭では分かっていることなのに、心が受け付けようとしない。
 そんな満月の心情を見透かしたように、晴尋の容赦ない言葉が響く。
「元の世界へ。貴女の国、貴女の家へ。帰りたくはありませんか?」
 まるで、甘い誘いのように、それは腹の中に降ってきた。
 帰りたくはないかと問われたのは、初めてだ。こちらの世界の人々は皆、満月を欲し、元の世界のことなど露ほども口にしなかった。満月には故郷があり、残してきた父がいる。いくらこの国が大変だからといって、満月をあちらからこちらに連れてくるのは、利己的だとも少し思う。揺らぐだけの要素は、あった。
 けれど、もう満月はこの国を、この国の人々を知ってしまった。求められることの喜びも、重圧も、今かなぐり捨ててしまいたいとは思えない。
 真実もまだ、見つけていない。月と国を救えと言い、しかしその一方で、民衆からは悲劇の時代を繰り返そうとしていると思われている、月神。あの哀しい瞳ともう一度向かい合わねばならないはずだ。月の犯した過去の罪も、よくは知らない。月姫としての役目も、終えていない。まだ、何百とあるであろう月の欠片を、月に還すどころかどこにそれらが隠されているのかさえ、知らない。
「確かに、帰りたいという気持ちもあります。でも、私は今、全てを放り出して、自分の国に帰ることはできません」
 帰るまで、月姫として生きていこうと決めていた。しかし今は、月姫の役を全うして、それで自分の国に帰りたいと思う。不安だらけで自分なんかが……と思っていた頃とは確かに違う、輪国の月姫としての自覚が、黒川満月自身の想いが、この国に己を縛る。
「この状況は、月では改善することはできません」
「貴方の言う、この状況って?」
 強い語調になってしまったのを、撤回する余裕はなかった。晴尋の暗い茶色をした双眸を見つめる満月の瞳は、爛々と輝いている。
「月の行動です。月神と玉鳳が、現在月の再興のために躍起になっている理由が分かりますか?」
「輪のため、でしょう。あの人と日神様は輪国を守る神様なのだから」
 晴尋の凄艶な微笑みが、時の間崩れ去る。憎悪に絡め取られたような眼差しは、満月を通して、月を見つめているような気がした。
「輪国の神は、一人で十分です」
 そう言った晴尋からは、つい今し方満月に見せた負の感情は一掃されていた。
 同じだ、と満月は思った。
 ――俺たちがこの国の曜神として認めているのは、日神様だけだ。
 民衆の言葉が、晴尋の言葉が、月を否定する。
 息が詰まるのを感じたが、間違いは繰り返さない。私はまだ、月の言葉は何一つ聞いてはいないのだ。
「……否定、なさらないのですね」
「私は、否定できる確かなものも、勿論、肯定できる確かなものも、何一つ持ってはいないから」
 真摯な眼差しを、晴尋は微笑みながらも感情のない瞳で受け止めた。
「そんな貴女だからこそ、お帰りいただくことを提案しに来たのです。月に染まりきっていない貴女ならば、あちらでやり直すことも可能」
「嫌だと、言ったら?」
 物怖じしない目と、柔らかく細められた目とが、交わる。
 ここで折れるつもりはさらさらなかった。
「どうしてもお帰りいただくだけです」
 間合いを詰められ、満月は思わず後退った。足元の凹凸をローファー越しに認識して、満月は思わず生唾を飲み込んだ。
「そうまでして、私を帰らせたい理由を教えてください」
 必死で頭を回転させて、何とか会話を繋ぐ。
 どうしてもお帰りいただくということは、つまり、それを満月にさせるだけの手段を、晴尋が持っているということだ。何とかして、それだけは回避しなければならない。
 晴尋は、そんな満月の心の内を知ってか知らずか、鮮やかに微笑んだ。
「貴女が、月姫だからですよ」
 それ以外に理由は全くない、とでも告げるように、答えは簡潔だった。
「私なんか一人帰して、何か貴方がたに得があるんですか? 私の利用価値なんて、」
 小さく呟いた満月に、晴尋は首を振った。
「月姫、に利用価値があるのです」
 それは、満月自身には利用価値など全くないということと紙一重であった。
 それに、と晴尋は声音を低くして続ける。
「無駄な殺生はしない主義ですから」
 満月は目を見開いた。
 月姫には利用価値があるが、満月には利用価値がなく、日本に還すだけで良い。しかし、それならば、月神や玉兎は、どうなる――?
 満月より、遥かに利用価値があるであろう、月の側の者たちを殺すことは、晴尋にとって無駄にはならないはずだ。
「どうやら、頭は回るようですね」
 冷やかに告げられた称賛に、礼を返す余裕も気力もなかった。
 更に追い詰められ、満月は凹凸を踏み越え、大樹の幹に背中を預けた。晴尋が、大したことではないように、綽綽しゃくしゃくと大樹の根を踏み越える。
 満月は、唇を噛み締めた。身動きが、取れない。晴尋を突き飛ばして逃げようかとも思ったが、男を相手にしてそれが成功するとは到底思えなかった。
 晴尋の腕が、満月の手首に延びる。
「大人しく従ってください。その方が、貴女にとっても良いでしょう」
 橙色の光が、満月の身体を包んだ。まるで炎で焼かれるかのような感覚に、満月は悲鳴をあげそうになる。
 これは――。
 満月を輪国へ導いた優しい光とは、月の光とは、明らかに違う敵意を持った光。瞬間、満月は唐突に理解した。これが、日神の意志だと。日神は月を憎んでいるのだと。
「私に……私にとって、何が良いかなんて……私が、決める」
 最後に、視線が交錯する。満月は、晴尋の先に、日神の影を見たような気がした。

 森を駆けずり回っていた玉兎の血の気が引く。月姫の気配が、この輪国から消え失せた。喪失感が、玉兎の身体を暗闇へ引きずり降ろそうとする。
「嘘、だよね? 月姫――」
 呟きは、森の声に掻き消されて、誰の耳にも届かない。崩れ落ちた玉兎を嘲笑うように、木漏れ日が強く、玉兎を照らし出していた。
 同時刻、月宮殿で己の掌に目を落としていた月神は、ふと、顔を上げた。気配を追うが、もう、月神の掌握できる範疇を満月は超えてしまっていた。
 がり、と唇を噛めば、そこから鮮血が滴った。ついに、日神が動いた。想定していたとはいえ、月姫が奪われるとは。最後の切り札をまず持って行くというやり方が、何とも憎らしい。
 取り戻せるだろうか。月神は再び己の掌を睨むように見た。ただでさえ、月の力は弱まっている。二度はないと思って、玉兎をあちらに向かわせ、連れてきた。
 だが、取り戻す。幸い、月姫は殺されてはいない。
 立ち上がり、遥か遠くの日宮殿を眺めやる。一拍の後、月神は環らを呼び寄せ低い声で呟いた。
「玉兎を連れ戻せ。これ以上日に奪われるな」


 その晩、満月は自宅のベッドで目を醒ました。
「家……? あれは夢?」
 玉兎も、月神も、全ては夢が作り出した空想だったのだろうか。
 閑散とした可愛げのない室内は、紛れもなく満月のもの。立ち上がろうとして、満月は自分が室内だというのにローファーを履いていることに気がついた。それに、制服があまりにも汚れている。そして、極めつけにごく僅かにではあるが、月神との引力を感じる。
「夢、じゃない」
 気づいて、満月は泣き出しそうになった。全身鏡に映る満月の顔は、酷く歪んでいる。
 そこで、満月はもう一つの事実に気づいた。セーラー服の胸当てが取れかかり、そこからあの、紅い傷が覗いていた。それも、以前より大きく、色鮮やかなものになっている。
「何、これ。どうして――」
 呟いた満月は、大きな音を立てて階段を駆け上って来る何かを察知した。まだ、昼間だから、多分父は居ないはずだ。まさか、泥棒だろうか。
 構えて扉が開くのを待っていると、予想に違って、父親が血相を変えて飛び込んできた。
「お……父さん」
 父親の表情で、満月は瞬間全てを理解した。もう、何週間か家を無断で空けていた。父は心配しているに決まっている。会社を休むことも厭わないだろう。自分のことばかり考えていたと、満月は少し恥じ入った。
 父の瞳が、涙を溢しそうになり、怒りにめらめらと燃えそうになり、何度かそうやって変化を繰り返した。しかし最後は、いつもの優しい日だまりのような綺麗な瞳になって、満月をぎゅっと抱きしめた。
 父の匂いは、酷く懐かしくて、耐えていたはずなのに簡単に涙がぼろぼろと落ちてきた。
「お父さん、お父さん。ごめんなさい――」
 父親のセーターを握り締め、満月は何度も謝った。この広い家に、父親を一人にしてしまった。それが、どれだけ寂しくて哀しいことか、満月は何となく分かっていた。
「満月は、お父さんに謝るようなことをしていたのかな?」
 優しい問いに、満月ははっとして、静かに瞑目した。父に恥じ入るようなことは、何一つしていないと、胸を張って言える。それなのに、こうやって謝るのは、父にも、輪国の人々にも、失礼だし、申し訳ない。
 満月は微笑んで顔を上げた。
「ううん。あのね、お父さん。私、最初は逃げたりして、情けなくて、簡単に間違えたりしたんだけどね。凄く成長できたと思うの……えっと、多分」
 少し自信なさそうに言った満月の頭を、父はそっと撫でた。
「それで。今、どうしてもやらなくちゃいけない――どうにかしたいことの途中でね。もし、私にまだ出来ることがあるなら、また、こうやって家を空けることになると思うの」
 父は、少しだけ寂しそうに顔を陰らせたが、満月の想いを汲んでくれたようだった。
 いつも何かに脅えているような娘だった。それが優しさや何かによく気付く繊細さから来るものだと知っていたから、いつかそれが娘の強みになるのを待っていた。
 満月は、どうやら、多かれ少なかれ、成長したらしい。
「良いよ。満月がそこまで言うんだから、とても大事なことなんだろうね」
 そう言われ、満月はそっと睫毛を伏せた。玉兎や月神を初め、輪国の人々の顔が浮かんでくる。そう、とても大事な――。こんな風に、途中で失えるものではない。傲慢かもしれないが、私は多分まだ月姫なのだ。
 だから、出来ることを探そう。もしかしたら、道は開けるかも知れない。
 そんな満月の凛とした表情を見つめ、父は微笑を洩らした。
「じゃあ、今日の夕飯は満月の好きな赤飯にしよう」
「本当? ありがと、お父さん」
「そうと決まれば、靴! 早く脱いで玄関に持って行きなさい!」
 そういうことには、うるさい父だ。はつらつと響いた声も、輪国に旅立つ前と変わらない父の姿で、どこか嬉しい。満月は、零れんばかりの笑顔を見せると、ローファーを片手に玄関まで駆け出した。


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