月姫 鎌鼬の残痕[十]



 返す言葉は、どんなに探しても見つからなかった。雨脚は更に激しくなり、雷鳴は耳をつんざくように、その音を轟かせた。
 呆然として、満月は前を見つめる。見つめた先にあるのは、人々の顔ではなく、自分だった。
「満月!」
 華奢な腕に抱きすくめられても、満月は言葉を発することができなかった。
「私の目を見て。母様の言葉を思い出して! 玉兎は何て言った? ――月神様は、どんな方だった?」
 見下ろすと、雨か涙か判別がつかないほどの水が、狐鈴の顔中を滑っていた。
 ――私はね、月と、月神様と、玉兎と、それから満月。貴方たちを憎む理由も、嫌う理由も見当たらないの。
 ――月神様は、私を怒鳴りも見捨てもしないで、狐鈴の病を取り払ってくださいました。
 ――だから、真実を見つけて――月姫。
 ――月を、輪を救えるのは……お前しか居ない。
 輪国を訪れてから今までのことが、全身を駆け抜けていった。
 馬鹿だ。本当に、私は馬鹿だ。あんなに沢山の真っ直ぐな想いを見てきて、どうして月を疑える。実際に、何かを見たわけでもないのに、何の証拠を以て、判断できる。
 助けられてばかりで、私は本当に……愚かだ。真実を見つけるだなんて、大層なことを胸に掲げておいて、この様は何だ。
 視界が濡れていくのを気にせず、満月は狐鈴の柔らかな頭を何回も何回も優しく撫でた。
「ごめん。本当に……目が、醒めた」
「……馬鹿」
 満月の制服の袖を握り締めた狐鈴の拳が、あまりにも小さくて。満月はその拳にそっと手のひらを重ねて、もう片方の手でぎこちなく狐鈴の背中を擦った。

「月姫とやら」
 初老の男の声が、背後から響いた。満月はすぐに、涙を拭い、そちらに向き直る。
 民衆の表情と、自分がしでかした行動を照らし合わせて、満月は何を言われるのか察しがついた。
「まるで、私たちにたぶらかされたとでも言うような口ぶりですな」
 やはり、と満月は唇を噛み締めた。
 そういうことではない。彼らが嘘を吐いているわけではないことは、彼らの目を見れば分かることだし、そもそもそんなことをして、彼らに益があるとは思えない。
「違います。貴方たちが嘘を吐いていないことくらい、分かります。でも、」
 これだけが、輪国の真実ではないはずだ。絶対に。
 しかし、根拠のないことを言っても、仕方のないことだ。それから先は自分で見つけていくしかない。そしてそれは、ここで見つかるものでは、きっとない。
「私は、全てを聞いたうえで判断したいんです。だから、月神にも、それから日神様にも同じことを聞きます。それでもし――月神が輪に禍をもたらそうというのなら、全力で止めるつもりです」
 そんなことはあるはずがないと思いながら、けれど、禍の権化が月神であるということが真実ならば、そうしようと思った。
 不確定要素が多すぎため、月神を一本槍に庇うことはできない。でも……月神を信じることはできる。
 人々の中に、満月の言葉を評価する者がちらほらと窺えた。しかし大多数がまだ、月の言葉は信用しない様子で、馬鹿にしたような侮蔑を投げた。
 それでも、進歩は進歩だ。
「最後に、一つお願いがあります」
 そう申し出た満月の言葉の行方を、民衆は固唾を呑んで見守った。
「差別意識を、捨ててください」
 命令口調のようになってしまったことに気づいて、満月は慌てて自分の言葉を後追いする。
「ここでは、日属月属という配下の違いだけで、日属は尊ばれ、月属は卑しまれているそうですが……誰も望んで月属に生まれたわけじゃないし、実際に月属の人たちが、禍をもたらしたわけではないでしょう?」
 それは、輪国の人にしてみれば、かなり的を射た発言だったようで、誰もが苦虫を噛み潰したような顔つきになった。狐鈴は、満月の月への言い様に眉尻を上げたが、満月の気持ちを汲んでか、反論はしない。
「しかし月属の中には、その狐の娘のように月を支持する者もいるじゃないか」
「狐族の者が最近、夜になると周辺の住民を脅かしているという噂もあるが、どうなんだ?」
 それには、狐鈴が進んで答える。
「私が、月を支持するのは個人の思想の問題よ。現に、私の一族で月を支持するのは片手で数えられる程度だもの。ただ、」
 狐鈴の瞳には、覚悟という名の意志がはっきりと見て取れた。
「私の宿の従業員たちが、一般の方を無差別に襲っていたのは本当です。それは心からお詫びを申し上げます」
 民衆からは、野次が飛んできたが、すぐにそれは収まった。狐鈴は土砂降りの雨の中、膝を折って叩頭した。その潔さに、人々は圧倒されたのだろう。
 私が行かなくて、誰が行く。そう言い切った狐鈴の決意は、頭を下げることに何の躊躇も必要としなかった。
 年下なのに、見習わなければならないことばかりだ、と満月は目を見張る。
 それに、と満月は呟いて前へ出た。
「九尾亭の従業員は、月属というだけで差別される理不尽を嘆いていました。自分たちの所為でもないのに、突然冷たくされて。だけど、何かの形で貴方たちに認められたくて、ああいう行動に走ってしまった。これは、私が月姫だから言うわけじゃない」
「皆が憎んでいるのは、同じ国の民じゃなくて、僕や月神様でしょう? 憎しみを、なすりつけないで」
 そう補ったのは玉兎だった。
 まるで、月の罪を認める発言だなという声に、ああ玉兎はこれまで一人で月の無実を訴えてきたのだと、今更ながらに気づかされた。
 玉兎の微笑みにやましい所は一つもない。
「だって、疑いが晴れる日が絶対に来るって、信じているからね」
 そう断言した玉兎の笑顔は、どんな不安も払拭して、煌めく。雨の中でも健在のそれは、僅かかもしれないが、確実に人々の心を打った。
「輪国の過去と月神が為そうとしていることについては、調べて後ほど報告します。ただ、差別意識だけは、捨てると約束して。私も、月に非があれば、月ではなく輪国のために尽くすと約束するから」
 満月の言葉に、教師の男が静かに返答する。
「いたしましょう。子供たちには、その志を伝えていきます」

 狐鈴の「九尾亭の皆に会ってほしい」という要望は、一部の民衆の了解を得られ、一先ず九尾亭に帰宅することに決定した。先導は狐鈴と玉兎に任せ、満月は後方から人々の背中を見つめる形となる。玉兎に聞きたいこともあったが、狐鈴を精神的に支える役は、玉兎の方が向いていたし、民衆の目の前で月の話をするのも感心できないことだろう。それに、玉兎は一人で考える時間を与えてくれたのかもしれなかった。
 輪国の民の溝が埋まる未来は、そう遠くないだろう。勿論、わだかまりは中々消えてはくれないだろうが。段々と遠退いていく雨雲が、それを象徴しているようで、満月は僅かに口角を吊り上げた。
 差別問題が一旦片付くと、次は輪国の過去が満月の頭を悩ませた。今まで、小出しでしか入ってこなかった情報が、一気に入ってきていて、混乱を隠せない。
 月の言い分は、玉兎や月神に聞くのが一番だろう。それから、民の絶大な信頼を集める日神にも、会う必要がある。真実は奈辺にあるのか。どうすれば、それが掴めるか。鍵を握っているのは、間違いなく日月だ。
 嫌な風が、ひゅうと吹いて、満月の髪から雨水を浚っていった。風を追いかけた満月の瞳が、驚きに見開かれる。木立の陰が揺れたのは、その直後だった。

 九尾亭へ到着すると、狐鈴は開口一番「お客様よ!」と従業員を一喝した。
 満月と、玉兎が拓いてくれたものを、みすみす逃すわけにはいかない。ここで見せる狐鈴の器量に、今後の月属の民と、日属の民の関係が懸かっている。しかし、そんな狐鈴の想いに反して、九尾亭に漂う空気は凍てついていて、誰一人として動こうとしない。心配そうに玉兎にちらりと目線をあてられ、狐鈴は必要ないから、と頑なに首を振った。
 ざわりと空気が揺れたのを、背に感じる。日属の者たちの囁き声は、不穏な気色をばらまいた。焦りが、狐鈴の額に滲む。ここで、日属の者を帰せば、見え始めた希望は、すぐにまた暗闇の中に溶けて消えてしまう。
 どうして、誰も動かないの。少女の狐鈴が呟きそうになって、若女将である狐鈴がそれを諌めた。
 従業員たちの傷が、深いことは知っている。今まで、自分たちを蔑んでいた人々に突然押し掛けられても、どう対応していいか分からない。彼らの警戒と困惑はもっともだ。
 本来ならば、時間をかけて、説得するべきなのだろう。別れた道が再び一本の道に繋がる時が来たのだと。
 しかし、そんな猶予は残されていなかった。今、従業員一同を集め、日属の民を待たせれば、月属の者の品位を疑われる。蔑まれた時代があったことを、理由になんてできない。
 もしも、狐鈴たちが特別な・・・待遇をすれば、それは、自分たちがあれほどまでに傷つけられた差別と、何一つ変わらない。
「お部屋に、ご案内してさしあげて」
「若女将……一体、これは」
 唇をわなわなと震わせ、一人の仲居がどうにか、かぼそい問いかけをした。
「お客様がいらっしゃることに、何の不思議もないでしょう。お客様がお待ちです。さあ、早く」
 強い口調になってしまうのは、まだ己の度量が小さいからか。下降しそうになる矜持を、必死で律する。十二歳という若さで若女将の座に就いた狐鈴を、頼りないと言う者が多くいたことも知っている。ここで、従業員が狐鈴の言葉に従わないのは、己の力不足だということも分かっている。
 それでも若女将に選んでくれた母に恥じないように、月姫という大役を体当たりで務める満月に負けないように、何より愛する九尾亭のために、ここで挫けるわけにはいかなかった。
「どうして、いきなり」
 板前の顔は、不服そうに歪んでいる。
「慣れ合うなら、日属の謝罪が先だろう」
 同意の声がいくつも上がった。
「――!」
 慣れ合うだなんて哀しい言葉が、まさか出てくるなんて思えなかった。九尾亭の従業員たちは、一日も早い隔たりの消滅を望んでいたはずだった。それが歪んだ形で現れたのが、若い衆が起こしてきたあの事件の数々なのではなかったか。
「日属の者を無差別に襲っていた狐の言葉だとは思えないな」
 日属の民の一人が、声を荒げた。険呑とした雰囲気が、九尾亭を侵食していく。
「あの謝罪は、何だったんだ? 小娘?」
 血の気の多い日属の若い猿の男が、狐鈴の着物の狭襟を乱暴に掴んでそう吐き捨てた。玉兎が咄嗟に止めに入ったが、大の男を相手に、幼い玉兎の力はあまりにも弱い。
 どうして――。どうして、分かり合えない。いがみ合う理由など、どこにもないというのに。そう叫びたいのに、狐鈴には零れそうになる涙を堪えるのが精一杯であった。
「――お客様、お手をお放し願えますか」
 猿の男の手首に添えられた手は、金色。節くれ立ったその手のひらは、料理人の手をしていた。
 涙の溜まった宝石のような碧の瞳が、目一杯に見開かれる。何で、この人は、いつだって私を助けてくれる――。
「仲居たちは、お客様方をお部屋まで案内しろ。お前たちは調理場へ行き、お食事の準備を」
 お前たち、と呼ばれた板前は、端伎の険しい表情にびくりと肩を震わせる。有無を言わせぬ物言いに、従業員たちは従う外なかった。
 猿の男の拳が、行き場を失ったように狐鈴の狭襟から離れる。目線を泳がせた猿の男は、怒りで染まっていた顔を青くして、申し訳なさそうに、狐鈴に向かって頭を下げた。

 込み合っていた玄関から、九尾亭の奥へと人が流れ始める。九尾亭を取り巻いていた嫌な空気も温度も、今やまるでそれが嘘であったかのように、見る影もない。端伎は玉兎に妙に潔い黙礼をすると、狐鈴を引き連れて宿の奥へと消えて行った。
 全く、彼らしい。玉兎はほっと胸を撫で下ろすと、思いだしたように満月を振り返った。
「……月、姫?」
 満月の、鮮やかな黒髪。黒真珠のごとく美しく輝く瞳。異国の装束に包まれたその身体は、かけがえのない月の宝珠だというのに。そこにあるはずの姿を、玉兎はどれだけ目を凝らしても見つけることができなかった。


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