月姫 鎌鼬の残痕[一]



 朝霧によって、模糊とした世界が視界いっぱいに広がっていた。数メートル先の景色さえ朧で、砂利を踏む微かな音にだけ、現実味が帯びていた。朝日が見えない物騒な竹林の中という状況も重なり、胸の中に不安が立ちこめる。
 満月は真白い霧の先に視線を走らせた。悪い予感は当たるものだ。
 霧の中に、奇妙な形をした暗影が浮かぶ。ざわりと風が騒いだ。笹の葉が、警告をするように緊張感を持って揺れた。
 どっと汗が噴き出た。呼吸が一定でなくなり、唾を飲み込むタイミングを見失った。やっとのことで、足先に力を込める。満月は前方を睨むように見渡しながら、何歩か後退した。突然、柔らかな毛のようなものに、腕が触れる。その感覚に度肝を抜かれて、満月は声を上げそうになった。すんでの所で、悲鳴を内側に引っ込めてから、それの正体が玉兎であることに気づいた。ほっと息を吐いたのも束の間、今度は霧の向こうから淡い蒼の炎が勢い良く飛んできた。
「玉兎!」
 今度こそ満月は悲鳴を上げた。しかし、玉兎からの返答はない。
 次々と、蒼色の炎――鬼火が現れて、満月と玉兎を囲い、満月の気持ちを嘲笑うかのように非常識な速さでぐるぐると回る。いくつかの鬼火は、まるで本物の鬼のようにぱくりと口を開いて、満月の腕や髪を掠めた。鋭利な歯が生え揃っている訳ではないのに、怖くて怖くてたまらない。
「玉兎……!」
 あまりの恐怖に身が竦み、玉兎の方に視線を送ることさえ出来なかった。震える声に、玉兎はまたも応えない。代わりに、小さく「コスズ」という単語を発した。
 玉兎は、頼りにならない。どうしようもなくなって、満月は一層がちがちに固まった。頭は、混乱状態で、この状況を打破する策は全く浮かんでこない。
 ざわ、ざわ。風の奏でる音に、小さな変化が生まれた。こういう、恐怖の中に居る時ほど、耳は小さな音さえ聞き漏らさない。それは、危険から身を守る手段としては称えるべきことだろう。しかし、今の満月は、兎に角この状況から逃避したいという気持ちばかりが先走っているため、耳なんて聞こえなくなってしまえば良いとさえ願っていた。
 遠くの方から、砂利の地面を駈ける音が聞こえる。段々とそれは加速し、大きなものとなっていく。荒い息遣いまでもが、満月の聴覚に澄み渡って届いた。また何か恐ろしいものがやってくるのかと、満月は泣き出しそうになるのを必死で堪えた。
「何やってるんですか!」
 満月がぎゅっと目を瞑るのと、少女の声が鳴り響くのは同時であった。
「やめてください! そんなことをしても、何も変わりません!」
 少女の叫びが、悲痛に揺れる。満月が金縛りから解放されたように、ぐりんと首を動かすと、霧の中に小さな人影が立っていた。年は玉兎と同じ頃だろうか。赤い着物から覗いた尾は、ふさりと豊かだ。尖がった耳は、遠方の音まで聞き分けられそうなほど、研ぎ澄まされているようだった。
若女将わかおかみ
狐鈴こすず
 鬼火たちは、そんな言葉を口々に呟くと、白煙を上げて姿を変えた。父母が読んでくれた昔話に、よく化け狐が出てきたことを思い出す。
「狐……?」
「うん。狐の宿、九尾亭の従業員たちだよ」
 やっと、玉兎がきちんとした答えをくれる頃には、妙な空気が一同の間に流れていた。

 九尾亭の客室には、墨で文字のようなものが書かれた掛け軸が掛かっており、厳かな雰囲気を醸し出していた。その下には、白と紫を秀逸に配色した花がさり気なく生けられている。堅苦しいだけでなく、心を穏やかに保てるようにとの工夫が凝らされているらしかった。
 とはいっても、現在、心を穏やかに出来るような状況ではない。満月は座布団の上で、ピンと背筋を張り、正座をしていた。部屋一体に張り巡らされた緊張の糸を、決して揺るがさないように。
「皆、下がって。こちらの方々には、私が母様に代わってお話をさせていただきます」
 狐鈴は意を決したように碧色をした瞳に力を込めると、その場に集まった従業員たちに向かってそう言い切った。数秒もしないうちに、厳粛な議場と化していた客室が騒然とする。何だかここでは、満月の知らない所で様々な計算が働いているような気がした。
「狐鈴一人の問題ではないのだ。まだお前は若く、これはお前の身に余る」
 年老いた狐が言った。老翁は苦渋の表情を浮かべていて、話題の中心にいるであろう満月たちには、目をくれようともしない。
「若女将、話も何も無いでしょう! この九尾亭からお引取り願うだけです!」
 若い女の狐だ。女は、満月たちが傍らで耳を澄ませているのを知りながら、そう断言した。まるで、存在を否定するかのような口振りに、満月はびくんと肩を震わせた。それは、あまりに些細な異変だった。けれど、彼らは当事者の動きには桁外れに神経質だった。
「今更、月を復興してどうする? また同じことを繰り返すのか?」
 若い男だった。鋭い視線が突き刺さる。何を、と聞こうにも、男の覇気に圧倒され声が出ない。
「蛙の子は、蛙だな。輪を二度も災厄の渦に放り込もうというのか」
 どういう、はまたも声にならずに掻き消えた。
 狐鈴が従業員たちを制止するように、キッと睨み付けた。きっと、狐鈴がこのような態度を取るなんて滅多にないことなのだろう。従業員たちは、目を見開いて、そして押し黙った。
「月神様は」
 唐突に、それまで黙って事の成り行きを見守っていた玉兎が口を開いた。
「全力で輪を救おうとしているよ」
 声つきは静かだった。しかし、それは重みを持って紡がれた言葉のように、満月には聞こえた。海鳴りが聞こえる。血が騒ぐ。何かを知らせるかのように、身体の奥から鼓動が響き、身の毛を総立ちさせた。駈ける熱は、果して動揺からか、興奮からか、恐れからか。
「その名を口にするか。忌々しい……愚神グシンめ」
 老翁が吐き捨てると、周囲の者たちも揃って満月と玉兎に憎悪を向けた。息苦しい。彼らを、直視することが出来ない。訳も分からず、憎しみを向けられて。どうすれば良いというのだろう。
 そっと、玉兎に目をやると、彼の顔は一瞬だけ悲痛に歪んだ。心臓がどくんと跳ねる。玉兎の辛そうな顔は見ていられない。そんな満月の心中を汲み取ったのか、玉兎はすぐにいつもの柔らかな表情に戻った。
「僕たち、今日から月の欠片を返してもらうまで、ここに泊まるよ。狐鈴、良いかな?」
 玉兎の申し出に、一同は心底驚いたようだった。狐鈴が刺さる視線を避けながら、それでもしっかりと玉兎に答える。
「勿論です。お客様はいつでも歓迎していますから」
 どよめきが起こり、激震が走った。


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