月姫 鎌鼬の残痕[二]



「久し振りのお客様です。皆早く準備に取り掛かって」
 喧騒を極めた客室を、一蹴したのは狐鈴であった。
 まだ納得が出来ない様子の従業員たちを相手に、てきぱきと指示を出し、渋々部屋を後にし始めた幾つもの背中を揺るぎない瞳で見送った。視界に目的の人影を認めると、狐鈴は退出しようとしていた女を呼び止めた。女は、刻み足でこちらまで向かって来る。女の目の焦点は、まっすぐ狐鈴に向かっていた。が、隙を窺うようにして、満月や玉兎の方にちらちらと厳しい表情を充ててきた。それはまるで、商品を品定めするかのように無遠慮だった。
 女と狐鈴の会話の内容から察するに、どうやら目の前の女は仲居頭を勤めているらしかった。仲居頭は物言いたげに狐鈴の指示を仰いでいる。
 月は、何故こんなにも忌み嫌われているのだろう。過去に、何があったというのだろう。九尾亭において、月の欠片を集めるという使命をやり遂げるのは、困難を極めるような気がした。
 やがて、客室には満月と玉兎と狐鈴の三名だけになった。張り詰めていたものがふっと消失し、やっと満月は大きく息を吸い込んだ。
「ご挨拶が遅れてしまい、大変失礼致しました。初めまして、月姫様。久し振りだね、玉兎」
 狐鈴は女将の顔から一転し、少女の顔を見せた。満月はふと、可愛い子だなと感じた。狐の容姿の良い悪いの基準なんて、よく分からないにも関わらず、だ。満月から見れば、狐鈴はとても可愛らしい容貌をしていた。だが、何より、狐鈴の内面がそう思わせるのだろう。
「うん。ありがとう。迷惑かけるね」
「私は大丈夫」
 人を安堵させる笑みを浮かべて、狐鈴が言った。それからすぐに、狐鈴は何か言おうか迷っている満月に向き直った。その一連の動作からは、狐鈴は女将なのだということがありありと伝わってくる。会話に参加すべきかどうか悩んでいたことなど、すっかり忘れて、満月は口を開いていた。
「初めまして。ええと、若女将?」
「はい、何と呼んでくださっても構いません」
「じゃあ、狐鈴ちゃんでも良い?」
 少し図々しかったかと狐鈴の顔を窺うと、嬉しそうな笑顔を返された。自然とこちらまで笑顔になる。
「皆が、失礼を働いてしまって、申し訳ありません。お気を悪くされておりませんか?」
「そんな、全然」
 満月は首を振った。怒りはなかったが、悲しみがあったのは事実だった。けれど、それを言えば、狐鈴を傷つけてしまうだろう。そう配慮をしたつもりだったが、あのような態度を取られたのだ。平気で居られるはずがないということは、目に見えて明らかだった。
「皆、悪い人ではないんです」
 そう言った狐鈴の目は伏せられていた。
「大丈夫。月姫はちゃんと分かってるよ」
 玉兎が、諭すように柔らかな口調で告げた。ぱっと狐鈴の表情が明るくなる。
「それで、狐鈴。月の欠片のことなんだけど」
「うん。私は、出来れば無条件で返したいよ。でも」
 狐鈴は目線を玉兎から外した。
「これは私の一存では決められない。皆が――せめて過半数が返還に賛成してくれないと」
 過半数……。満月は口には出さずに、狐鈴の言葉を反復した。何をどうすれば、あの狐たちの心を動かすことが出来るだろうか。答えを求めるように、満月は玉兎を見つめた。けれど、玉兎も答えを持っている訳ではないようで、苦い表情をしていた。
「協力出来ることは、何でも協力します」
 返答に迷っていた満月と玉兎に、狐鈴はそう申し出た。社交辞令などではないひたむきな想いが、そこには込められているような気がした。
「ありがとう」
 微かに微笑んだ満月と玉兎からは、希望の匂いがした。

 狐鈴の気配が消えた客室は、再び静穏からは遠のき、どこかぎすぎすとした空気が漂い始めていた。
 知りたいことが、山ほどあった。向こうから話してくれるのを待つと決めていたというのに、今はどんな手段を取ってでも真実が知りたいと心の奥底から願っている自分が居た。それは多分、月という枠組みから逸脱し、他と関わりを持つようになったからだと満月は思った。
 それに、狐たちから月の欠片を返してもらうためには、より多くのことを、否、最低限のことを認知していなければならないだろう。知識が欠如し過ぎている今の満月では、話にならないはずだ。
「ねえ、玉兎」
 満月の呼びかけに、玉兎は踏ん切りをつけた様子だった。
「どういうことなの? 何があったの?」
 どのように質問を重ねれば良いか分からずに、満月はぎこちなく尋ねた。
「そろそろ言わなきゃいけない頃かなって思ってたよ」
 玉兎は一息吐いた。重い溜息だった。それを明かすということが、どんなに重要なことなのかを満月は再認識する。
「でも、全ては言えない。というより、今それを言っても上手く理解することが出来ないだろうから。それでも、良い?」
「うん。今、玉兎が話せる範囲で良いから。教えて」
 満月は心臓が煩く高鳴るのを感じた。やっと、核心に迫れるような、妙な加速感。嬉しいと思う反面、何が告げられるのかという恐れや不安が溢れ出してきた。
「輪国は日月によって成り立っているんだ。日月って分かる?」
「うん。ねこばあ様から聞いた」
 日と月のことだよね、と満月は続ける。戦乱が起ころうが、流行り病が蔓延しようが、日月が全てを取り払い輪を守る――それは、満月がかろうじてこれまでに得ていた知識の一つだった。それなら話は早い、と玉兎は満足そうにまた言葉を零し始めた。
「それが、輪国が日と月の国と言われる所以なんだ。あと、日と月は生命の源でもあってね。輪の民は日か月のどちらかの配下にある」
 配下って言っても手下とかそういうことじゃないんだ、と玉兎は補足した。配下というのは、どちらの属性にあるかを示す言葉なのだという。満月は分かった、というふうに頷いて見せた。
「今、輪の民は二分しているんだ。尊ばれるものと、卑しまれるもの。尊ばれるものは日の配下の日属ジッショク。卑しまれるものは月の配下の月属ゲッショク
 満月は怪訝そうに玉兎を見やった。
「それはどうして? 今ってことは、昔はそんなことなかったの?」
「うん。変わってしまったのは、つい最近のことだよ」
 玉兎は曖昧に笑った。その奥に、胸が張り裂けるほどの悲しみを抱えているのだろうと思うと、満月はどうしようもない気持ちでいっぱいになった。
「詳しくは言えない。だけど沢山の人が絡んで、色々なことが起こって、それで月は卑しいものとされてしまった」
 ならば、狐が月に対して、月神に対して過剰なまでの拒否反応を見せるのは、憎悪と化した激情をぶつけるのは。卑しいものとされるものへの、尊いものとされるものからの侮蔑だろうか。否、と満月は首を振った。
「狐たちが月を嫌っているのは、狐族が月属だから?」
 仮定を結論へ導く問いを、満月は玉兎に投げた。あれは、低い地位にいるものに対しての嘲笑や軽蔑といった類のものではなかった。彼らから滲んでいたのは、蔑まれ、孤独に陥った苦しみや悲しみであった。
 狐は、生まれついての月属だった。だから、彼らに蔑まれた直接の原因はない。苦しみは、悲しみは、憎しみとなって矛先を月に向けるだろう。
 玉兎は、惨憺たる顔色で肯定を示した。
 響いてくる言葉のどれもが、哀しかった。
 満月は、とてつもなく大きなものを背負った目の前の兎の少年の手のひらを、ぎゅっと握り締めた。玉兎は少し驚いたように身を強張らせたが、すぐに慣れてその手を握り返した。
「多分これから、欠片を集めていく上で、月姫も沢山罵声を浴びせられることになると思う」
 不吉な予告だ、と満月は険しい表情をした。しかし、それはどうやっても避けられることではないだろう。
 私は、月姫なのだから。
「月を、月神様を、僕を、疑うことがあるかもしれない」
 切なげに、声は震えていた。
「でも、これだけは信じて。月姫」
 玉兎は紅に灯った炎を輝かせて、満月を見上げた。
「月神様は、本当に優しくて、民を一番に思える素晴らしい方なんだ。だから」
 ぽろりと、玉兎の瞳から一粒の涙が零れ落ちた。
「だから、真実を見つけて――月姫」
 満月ははっと見開いた。そして、少年の真っ直ぐに伸びた眼差しをじっと見据え、思いの丈を決して伝え損ねぬよう、強く、強く、頷いた。


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