月姫 鎌鼬の残痕[六]



 翌朝、目が覚めると、狐鈴の姿はもうそこにはなく、客室には玉兎と満月だけが取り残されていた。ほのかに漂ってくる朝餉の匂いに、満月は彼だ、と心の中で呟いた。
 昨夜の狐鈴の告白を思い出す。狐鈴は、月を憎む理由も、嫌う理由も見当たらないと言った。ならば、狐鈴と他の九尾亭の従業員たちの間の違いは、何だというのか。そもそも、何故、日属、月属の間に決定的な境界線が引かれてしまったのだろう。月が卑しまれるようになったのは、玉兎の言う、沢山のことが起こったというのは、具体的にどのようなことなのだろうか。
 九尾亭に来て、急速に進んだと思われた知識の回収には、まだ大きく欠如しているものがある。満月に与えられているのは、僅かな断片のみだ。パズルのように、得た情報をはめていこうとしても、隣り合うピースが見つからない。結局の所、どんなものがそこに描かれているのか、全く見えてこなかった。
 玉兎は、ピースを出し惜しみしている。満月が、どれだけそれを欲しがっても、まだそれを掲示する気は更々無いようだった。
 まだ、食事まで時間がある。
 満月は、寝巻き代わりの浴衣のまま、客室を出た。玉兎の小さな制止の声には、気づかない振りをする。
 何にしても、分からないことが多すぎる。真実を見つけて欲しいと、玉兎は言った。あの時は、その場の雰囲気に流されてしまったが、それならば、玉兎が全てを教えてくれれば、彼の言う真実は見えてくるはずだ。
 だが、それが叶わないのならば。
「すみません」
 満月は、廊下の掃除をする若い女の狐に声を掛けた。振り向いた女が、初日に満月たちを断固拒否した女であることに気づき、満月はぎくりとする。
 女は、明らかな嫌悪を向けて、睨むように満月を見た。
「何でしょう」
「あの、狐鈴は……若女将はどちらに」
「若女将は現在、取り込み中です。何か御用でも?」
 女の淡白な声が、冷え冷えと冷たい廊下に響いた。その床に、直に触れる足の裏が、じくじくと痛む。
「いえ、特に用がある訳でもないんですけど。もしお時間があれば、お話を伺いたいと」
 女は、そのまなじりを更に細める。
「宿を支える者が、早朝から時間があると思われますか」
 女は呆れた様子だった。それもそうだ。狐鈴は、若女将としての務めの他に、女将の務めも果たしている。暇な訳があるはずがない。満月は俯き、頬を羞恥に染めた。
 思わず、引き返しそうになるのを、唇をきつく結んで留める。
「あの、こちらのことに……輪のことに詳しい方っていらっしゃいますか?」
「……ご隠居ならば、大体のことに精通してらっしゃるかと思いますが」
 女は、表情も変えず、そう呟いた。
 ご隠居……。初日に見た、あの老翁のことだろうか。頭が固そうで、こちらの言い分など、何も聞いてくれなそうだ。それでも、話をしてみる価値はあるだろう。
「ですが、ご隠居の手を煩わすまででもないでしょう。私は、輪について、多少のことは存じております。朝餉が終わりましたら、昼まで少々時間が取れますので、その時またお越しくださいませ」
 ありがとうと言おうとした矢先、女は口元を歪ませてそう言った。お前などにご隠居と話す資格はない。女は、暗にそう示していた。
「ありがとう。また来ます」
 うろたえそうになる自分を呵責し、今度こそ礼の言葉を口にして、満月は客室へと引き返した。九尾亭に充満する穏やかで温かな朝の匂いの中で、満月だけが、異質なもののように感じられた。

 食事が終わり、玉兎とはまた別行動になる。ここでの活動方針は、一向に変わる気配がない。まだ一週間も経っていないというのに、そんな風に悲観してしまう自分に落胆する。辛抱強く、狐たちに働きかけるしかないというのに。簡単に、他人の心を開く糸口が見つかるはずがないのだ。
 普通の宿屋ならば、忙しなく動き回っているであろう仲居たちも、満月たちしか客のない九尾亭では暇を持て余しているように見えた。
「お客様」
 呼ぶ声がして、満月はきょろきょろと辺りを見回す。
「こちらです」
 今朝の、仲居だ。女は、するすると唐紙からかみを開いて、満月を招き入れた。
 こぢんまりとした清潔な部屋だった。円形の窓は控えめに自己主張していて、灯は儚げにぼうっと燃えていた。満月にあてがわれた客室と同様に、花器が置かれてはいたが、そこに生けられているはずの花は無かった。壁は、四角く色の違う箇所があって、そこには長い間掛け軸が掛けられていたのだろうと予想がついた。どこか、物寂しさを感じる部屋だと、満月は思う。
 女は、満月が座布団に正座するのを確認すると、綺麗過ぎる動作で、机を挟んだ向かいに正座をした。
「輪について、でしたか。お連れ様もお詳しいと存じておりましたが」
 女は、そう言ったが、玉兎が満月に取っている処置を見抜いているような口振りだった。
「はい。でも、私はこちらのことに疎いので。色々な方から、沢山のことを学ばなければと思って」
 当たり障りのない言葉で返し、満月は女の次の言葉を待った。
「まあ、お連れ様が仰りたくないお気持ちも、よく分かりますが」
 女は、嘲笑のような笑いを含ませて、呟いた。その様子に、満月は胸がむかむかするのを気づかずにはいられなくなった。
「それで何をお知りになりたいのです?」
 そう問われて、満月は少し迷う。多分、これはデリケートな問題だ。直球で尋ねて良いことなのか。だが、最も知るべき事柄を、把握していないのは、これから月姫を務めるうえで、大きな障害となることだろう。
 視線を泳がせていた満月は、覚悟を決めたように女に視線をかち合わせた。
「……貴女方が、月を、嫌悪する理由。いえ、輪が月を嫌悪する理由です」
 女は、満月の問いを聞いて、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。何を言われるのだろうかと、満月は身体を強張らせる。
「月姫ともあろうお方が、ご自分の責任をお分かりになられていないと?」
 竹林のざわざわという警告音が、頭の中で鳴り響いている。月を嫌悪している者に、月のことを聞くという選択は、間違っていたに違いなかった。
「はい」
 決然と放ったつもりの言葉は、情けなく震えていた。
「私たち狐にそれを言わせますか」
 女の纏う空気は、嘲りから、怒りに変わっていた。はっきりと響いた声は、満月の居心地を更に悪くする。
 月姫に命じられてまだ日が浅いでは、知らなかったでは、済まない何かが、そこにはあった。
「あの」
「本当に、月には呆れさせられます。どうか、お引取りを。月の輩を匿っているとでも難癖をつけられたら、私たち狐の立場が無くなります」
 女はそう嘆いて、少し開いていた窓の障子を、ぴしゃりと閉めた。
「若女将は人が良いから、貴女たちを追い出したりはしませんが。若女将だって迷惑しているはずです」
 女は冷たく言い放ち、唐紙を感情のままに開いて、満月を廊下へと促した。
 満月は、逃げるようにその小さな客室を出た。女に辞儀をすることも、目を合わせることもままならなかった。
 情けなさに、涙が出そうになる。
 誰も、教えてはくれない。けれど、そう嘆いているだけでは、月姫なんて務まるはずがない。自分の知らない所で、身体の何十倍の大きさもある責任が圧し掛かっているのだと、感じることだけは出来た。
 邪魔だという、直接的な言葉は、心の中を掻きむしってくるようだ。痛くて、苦しい。でも、狐たちの中に、否、輪の中にある月への感情は、もっと痛くて、もっと苦しいものなのだろう。
 すきま風が、ひゅんと吹いた。穴の開いた胸に、それは槍のように刺さる。
 狐鈴は、女が言うように、ただ単に人が良いだけなのだろうか。だが、それならば昨日の告白は何なのだろう。違うと信じたい気持ちと、もしかしたらという悲嘆が入り混じる。
 人を傷つけるというのは、簡単なことではない。心が荒ぶし、感情のままに全てをぶつけても、後に残るのは、後悔と罪悪感だけだろう。集団で居れば、多少の優越感や快感があるかもしれないが、そんなくだらない感情のために、彼らが月を卑しめ続けるとは思えない。
 何か、とんでもないことを、月はしてしまったのだ。
 そして、そのとんでもないことを本当にしてしまったのならば、狐鈴だけが月を憎まないというのは有り得ないはずだ。しかし、狐鈴との会話が全て、同情や親切心だけで彩られていたとは、到底思えない。
 狐鈴に会って、話が聞きたい。狐鈴は、どこに居るのだろう。
 満月は、顔を上げて、いつもの廊下ではない見慣れない景色に驚いた。考え事をしていて、つい周囲に気を配ることを忘れていた。
 確かにそこは廊下なのだが、部屋の配置は違うし、窓から臨む庭には、見慣れない風景が広がっていた。唐紙の模様も、いつも見るものとは違っていて、どことなく侘しさを醸している。
 こほ、こほ。奥の唐紙の向こうから、そんな音が聞こえてきた。満月は不審げに、ゆっくりとその部屋に近づいていく。知らず知らず、その足は忍び足になって、満月は自分が緊張しているのだと気づいた。
「こ、すず」
 糸のように細い声が、満月の耳を掠めた。儚さの中に凛と立つのは、慈愛という名の愛情。懐かしい優しい匂いが、鼻腔をくすぐったような、そんな気がした。
「母様」
 それが、探し求めていた声だと気づくのに、大して時間は掛からなかった。狐鈴に会えたという嬉しさと、戸惑いが同時に押し寄せてくる。
 そんな昂った感情からか、踏み出した右足が、思わず大きな音を立てた。狐鈴の居る部屋から、困惑と驚嘆が漂ってくる。
 どうしようかと考える暇も無く、遠慮がちに開かれた唐紙の向こうに立っていたのは、紛れもなく、狐鈴その人だった。


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