月姫 灯火、囚われの孤高[三]



 満月の父――悠里は、その日放心状態で帰ってきた娘を、リビングのソファに座らせた。かつて満月が好きだと言った紅茶を小花の咲いた陶器に注ぎ、向かいの席にゆっくりと腰を下ろす。
「どうしたの」
 悠里の言葉が、冷え切った身体に温かな感触と共に沁み込んできた。それと共に思考能力も安定してきて、ある一つの疑問が、満月の胸にぽつねんと浮かび上がってくる。
「お父さんこそ、何でいるの?」
 心底驚いた様子の満月に、悠里は苦笑を返すしかなかった。
「今まで、あまりにも子不幸な親だったからね。一週間に一度くらいは、ちゃんと満月の顔を見たいと思って」
 そんなこと、と否定してくれる娘を持てて、本当に幸せだと悠里は思う。
「それより、満月。何かあった?」
 深い黒色の海のような眼差しに見つめられると、満月は嘘はおろか、隠しごとさえままならない。降参したように視線を外すと、満月は京華の艶麗なる微笑みを思い出した。彼女を思う度に、月神の双眸が胸に蘇るのは、何故だろう。月神はあんな風に笑わないし、特に似ている所がある訳でもない。どちらも満月には異常に思えるほど顔が整っているが、ただそれだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
「……ある人のとても強い拒絶に触れて。それが、全然違う人の拒絶と重なって。不安になったの」
 京華に関係ないと切り捨てられることは、月神にそう告げられることと同格のように思えて。そんな馬鹿なことはないと分かっているはずなのに、自分の価値に、また自信がなくなる。
 それは、満月を認めてくれた玉兎や狐鈴に対する裏切りにもなるのかもしれない。けれど、満月の中の奥底で渦巻くその不安は、どうしたって払拭されない。
「私は、あの人たちにとって、必要な存在なのかって。どうしても、考えてしまう」
 全然成長できていないじゃない、という自嘲が、視界を滲ませた。
「満月は、その人たちが、とてもとても……大切なんだね」
 穏やかに、気負いなく紡がれる言葉に、満月はいつもはっとさせられる。
「そう……うん。ねぇ、お父さん。私は、大切なものと自分を、疑わないようになれるかな」
「満月がそれを望むなら」
 立ち上がって、満月の頭をくしゃくしゃと撫でて言った父は、無条件の愛を心から示してくれる。小さく漏れた嗚咽が治まるまで傍にいてくれた父に、満月はとびきりの笑顔でありがとうと囁いた。

 夕飯をたらふく平らげ、自室に籠って何やら怪しい奇声を発し始めた満月を、悠里は皿洗いをしながら、何とも言えない面持ちで見守っていた。満月の話に聞き入っていて、その周りの物にまで気を配ることが出来なかったが、あの時、何やら奇怪な題名の本が、テーブルの隅に積まれてはいなかったか。記憶の糸を手繰り寄せ、悠里は少々気難しげに娘を思った。肝が据わったというか、度量が大きくなったというか。若しかしたら満月は大物になるかもしれない。
 悠里がそんな臆想をしているとは露知らず、満月は「魔術と儀式、その全て」の三ページに書かれている呪文の暗唱に励んでいた。かれこれ三十分は同じ呪文を口にしている気がするが、何の変化もない。異世界からのきざはしが現れるどころか、埃一つ動く気配がなかった。満月は折れそうになる心を必死で律しながら、何語か知れぬ言葉の羅列を、もう一度だけ半ば叫ぶようにして言い切った。
 何が違うのだろうか。アクセントの位置か、それとも気力の問題か。しかし、これほど強く異世界への道を熱望する女子高生は他にいるだろうか。否、いない。
 「異世界からの階の召喚」と銘打たれた三ページを捲ると、怪しさ全開の黒魔術を用いての呪いの方法が長々と記されていた。瞬間、満月は「魔術と儀式、その全て」を閉じ、「異世界への扉」に手をかけた。その判断は賢明だったと言える。
 適当にページを捲り、手頃なページで手を止める。今まで試した方法と比べ、特に準備が難しそうだ。だが、異世界への扉が、そう簡単に開いていては世も末だと思って、満月は十二ページの内容を読み込んだ。必要なものリストに従い、チョークとナイフを用意する。
 覚悟を決めたように、深く息を吸うと、満月は十二ページのタイトル「血の契約」をきっと見据えた。雪白のチョークで、フローリングの床にでかでかと緻密な文様を描いてゆく。二十分でそれを書き終えると、満月は仕上げに机の上に無造作に置かれたナイフに手を伸ばした。
 何も、滴り落ちるほどの血液が必要という訳ではないのだ。「異世界への扉」十二ページによれば、蚊に吸われる程度の血液量で構わないと書いてある。指先に鈍色の刃を充てがうと、満月はもう一度深く深呼吸した。
 その時だった。糸の向こうから、底冷えするような「気」が流れ込んできた。耐えきれず、満月の身体がふらりとよろめく。
 ――何をやっているんだ、お前は。
 威圧感のある低い声が、電撃のように身体中を走った。取り落としたナイフが、乾いた音を立ててフローリングの上を跳ねる。
 辺りをきょろきょろと見回すが、部屋には満月以外の人の姿は認められなかった。だが、声の正体は目視せずともすぐに分かった。
「月、神?」
 ――それ以外に誰が居る。
 泣き出しそうになって、満月はその場に崩れ落ちた。
 繋がった……。輪国との間に出来た深い溝が、一瞬の内に埋められてゆく。
 そういえば、月神に「様」をつけ忘れたが、月神も満月をお前呼ばわりしているので、この際そんなことは気にしない。
 ――何をやっているのかと聞いている。
 相変わらずの不遜な態度が、ただ懐かしかった。
「何って、出来ることをしてました! そっちと繋ぎを取る方法を……色々試してた。どうして、成功する前に連絡取れちゃうのよ」
 泣き笑いで、満月は悪態を吐いてみた。面と向かって話をしていない所為かもしれないが、月神を恐れる気持は、不思議と消えてしまっていた。
 ――そんな可笑しな方法じゃ、成功するはずがない。
 呆れたような月神の声に、満月はむっとした。
 ――だが、お前がこちらのことで必死になっていたお陰で、繋ぎが取れた。
 満月の脳内に、疑問符が乱れ飛ぶ。最初に使命を言い渡された時もそうだったが、月神はあまりにも言葉足らずだ。
 ――今度は、玉兎を遣いにやる余裕がない。多少の手助けはしてやれるが、お前が死に物狂いで辿り着く外、方法がない。
 満月は、少し顔をしかめた。
 死に物狂いと言ったって。
 満月は、この可笑しな術を成功させることに、少なからず必死だった。死に物狂いということは、これ以上のことをやらなければならないに違いない。
 しかし、必ずやり遂げてみせる。前を見据えた瞳は、夜の闇より深く透明に輝いた。
「どうすれば、良いの?」
 ――迷いや未練は全て断ち切れ。それらはお前を惑わす。
 迷いなんてないと反論しかけると、月神の言葉がそれに被さった。
 ――お前の心は、まだその地に縛られている。
 満月の身体が、それに呼応するようにぴくりと震えた。まさか、月神にそれを言い当てられるとは思わなかったが、確かに彼の言う通りだった。
「それは、認める。だけど、どうしろって言うの?」
 ――五日、猶予をやる。その間に自分でどうにかしろ。
 勝手すぎて、返答する気にもならなかったが、今の輪の状態を鑑みれば、それでもぎりぎりの選択を月神がしているのだということが分かった。
 月神なら、「どんな手を使っても、今すぐに来い」くらいのことは言うと思っていた。横暴すぎる月神の妥協は、寧ろ、気持ちが悪いくらいだ。
「三日で――どうにかする。月神、私に整理がつけば、絶対にそっちに行けるのね?」
 眼差しを闇夜に向けて、満月は強く尋ねた。
 ――お前次第だ。
 甘さの一切ない月神の言葉は、少々辛辣で、けれど満月の気持ちを更に強固なものにさせた。玉兎なら、きっと肯定を取り繕っただろう。
 ――限界か。
 舌打ちと共に流れ込んできた言葉が、霧の彼方へ消えて行くように、か細いものとなって届いた。身体中を支配していた冷たさが、躊躇いなく、すぅと抜けて行ってしまう。同時に、重い枷が瞼に付けられ、満月を眠りの世界へと誘おうと模索し始めた。
「待って! さっき、貴方、私が輪国のことで必死になってたから、繋ぎが取れたって言ってたけど。どうすればまた連絡が取れるの? 多少の手助けはしてくれるんでしょう?」
 大声が響き渡ると、冷温が逆流してきた。その意味に気づいて、満月ははっと息を呑む。
 ――お前の意志が、鍵だ。その眠気は、お前の精神力を利用しているため。月の力が強くなる夜ならば、かろうじて、声くらいは届けられる。
 満月は、僅かに口角を吊り上げた。特別な力は何もない。けれど、気持ちだけは、確かに自信が持てる。
 ――繋ぎが取りたければ、俺のことだけ考えろ。
 あまりに思い切った言葉に、満月はぐうの音も出なかった。きっと、月神は、大真面目にそんなことを言ったに違いない。けれど、身体中に圧し掛かる脱力感は、絶対に満月の所為ではなかった。
「助言ありがとう――貴方のことだけ、考えることにする」
 やけっぱちで返答しながら、満月は雑巾で白い文様を拭き始めた。ついでに、危ないのでナイフも机の中にしまう。だが、うつらうつらと傾いて行く世界を安定させることは、もはや不可能であった。これが、きっと月神の言う限界だろう。だから満月は、最後には月姫の顔をして、心からの思いを糸の先の先に居る月神に向かって呟いた。
「月神、私は、ちゃんと判断する。間違えないよう、努力する。だから……貴方、も本当のこ、と……教え、て」
 どさ、と鈍い衝撃音が響いて、ぷつりと糸は切断された。
 その音を聞きつけた悠里が、血相を変えて満月の部屋に飛び込んできた。そこに散乱している物は、やはり奇怪な物であったが、悠里は構わず満月を抱き起こした。特に目立った外傷もなく、呼吸も安定している。酷くても打ち身程度の怪我だろう。
 悠里は軽々と満月を抱えて立ち上がると、ベッドまで運んでそっと横たわらせた。満月の髪を掻き撫で、困ったように微笑む。
「無茶だけは、しないでくれよ」
 その囁きに応えるように、満月の寝顔が穏やかな微笑みに変わった。つられて、悠里も同じ種類の笑顔をこぼしてしまう。
 ……ますます、一人にしないでくれだなんて言えなくなってしまった。
「でも、君がそれで幸せなら、良いかな」
 満月の部屋を後にした悠里は、ゆっくりと階段を下りながら、そんなことを思った。


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