月姫 灯火、囚われの孤高[六]



 穹は暁に染まり、山際に烏の黒い影がよぎる。朱い闇に飲み込まれてゆく感覚は、否が応でも玉兎に不吉を暗示させた。視線の先の、月神の表情は硬い。張り詰められる空気と共に、自身で自らの内部を削って行っていることに、月神はまだ気付かない。
 倒れ込むように、月神は玉座に身を滑らせる。細い衣擦れの音は、沈黙の間に鮮烈に響いた。
 何をすれば、輪は救われる。何故、気付かない。滅びの唄に。
 己を苛む失望と孤独に気付かぬよう、月神は静かに瞼を閉じた。すると、やつれた顔に慈愛に満ちた笑みを貼り付けた女の姿が、ゆるゆると浮かび上がってくる。
 最悪の状況で、曜神の座を生まれて間もない月神に引き渡した、あの、女。無論、この世に生まれ落ちたその時に、月神の運命は決まっていた。けれど、初めは恨まずにはいられなかった。
 月神というだけで、世界から除外され、孤独な幼少時代を送ったのだ。それもこれも、自分を生んだあの女の所為だ、と幼い頃は瞳を怒りに燃やした。人として与えられるべき、情愛や幸福とは無縁の生活を送り、神として与えられるはずの親愛や尊敬とも決して相容れることはなかった。女と寄り添った先代月神をも、同様に恨み、憎んだ。
 だが、先代と女が居なければ、きっと既に輪は滅んでいただろう。それは、その事実は、この十数年で理解した。感覚的には、受け入れがたいものであったのだけれど。
 そして、その道を選んだ先代の心情をも理解しつつあるのもまた、認めたくはないが、事実だ。
 何が正しいのかなんて、疾うに分からなくなった。彩章や、民が口々に月を否定するように、若しかしたら、自分は間違えたのかもしれない。けれど、例えそれが間違いで、過ちであったのだとしても、守りたいものがあった。否、これから守るのだ。
「玉兎。全てを任せると言ったら、あの娘はどうするだろうな」
「――月神様!」
 月神の双眸の光は淀み、昏く陰に沈んでいた。玉兎は思わず駆け出して、玉座の前に跪く。だらんと下げられた月神の冷たい手を取り、暖めるように両の掌で包んだ。それを薙ぎ払い、月神は玉兎を鋭く睨む。
「死にたいか」
 身も竦むような冷然とした眼差しと声に、玉兎は刹那、ぴくりと震えた。
「お前が残らないで、誰が輪国を守る」
「他にきっと、方法があります。先代様も珱希様も、御身に全てを託されたのですよ」
 縋るように、玉兎は月神を見上げる。だが、月神は冷たい床に目を落として、あっさりと呟いた。
「それなら俺は、俺の子に託そう」
 玉兎の揺らいだ瞳は、哀しみと怒りを月神に向かって放った。月神の顔に薄い笑みが刻まれる。
「刃向かうか」
「月神様お一人で背負う必要はないでしょう。何のために、月姫をこの地に呼んだのですか!」
 紅に陰る空を仰いで、月神はからりと嗤った。
「次の世代に、過去を知る正しい者が必要だからだ」
 玉兎は、静かに瞠目する。月神の言う「次の世代」に、月神自身は含まれてはいないのだろう。己を過去と称しながら、その先の未来を語る月神の心境はどのようなものなのだろうか。
「玉兎。天は曜神に国と民の守護を命じたが、今、それを為そうとすれば、曜神同士の干渉は禁ずるとした天の理に反する」
 玉兎は、はっと顔を上げる。
「間違ったのは、何だ。月か、輪国か、曜神か。それとも――」
 否、と頭を振って、月神は額に手を添えた。
「俺は輪を失いたくない。それは、過ちか。大罪か」
「……分かりません。僕には」
 でも、と玉兎は強く宣言する。
「僕も、この国を失いたくありません」
 月神は薄い笑みを玉兎に向けた。
「俺には、民や他の曜神の認識を変えることは不可能だった。そして、現状は一刻を争う。ならば、取るべき方法は、一つだろう」
 月神様、と言いかけて、玉兎は口を噤んだ。
 本当に輪国を思うのならば、月神の言う方法を選択するべきなのかもしれない。今は理解されなくても、後に理解を得られる可能性は、十分にある。他の曜神とて、いつまでも頑固に、月と帛鳴が示した可能性を否定し続ける訳がない。いつかは気づき、考えを正すだろう。
 しかし、だからといって、未来に繋げるために今、犠牲を出すことしか方法はないものなのだろうか。
 僕は、嫌だ。そう反発したくて、玉兎は月神を見上げた。しかし、月神が玉兎に視線を寄越すことはもう無くて、玉兎は沈んだ面持ちで、部屋を後にした。

 輪国への出発を明日に控えながらも、満月は未だに自室で京華のことについて悩んでいた。明日は模試のため、午前中試験を受けた後、正午辺りには下校出来る。その際、京華と父を交えて食事をしながらでも、今日父に打ち明けた提案について話し合おうと思っていた。我ながら、勝手過ぎる計画ではあったが、既にその旨を京華と父宛てにメールで伝えた。京華には、食事についての誘いのみで、詳しいことには何も触れていない。それらは明日、学校で話すつもりだった。学校で話せるような話題ではないのだが、何しろ自分にはこちらで過ごせる時間があまりにも限られている。
 どうやって京華に切り出そうかと思案している内に、彼女に有り得ないわ、と一刀両断されそうな気がしてきた。満月はその結果に納得しそうになったのを、すんでの所で回避する。
 今、ここで悩むことが自分のすべきことではないはずだ。
「月神」
 満月は瞼を閉じ、強く念じた。流石に、三度目ともなれば、異世界との交信も慣れてくる。返事はなかったが、糸の先の気配は澄んでいて、月神がそこに居るのだと感じ取れた。
「昨日の続きを教えて」
 流れるように口をついて出た願いを、月神はすぐに叶えた。
 ――明螢の時代、帛鳴の予言は、明螢の死と元凶であった羅睺神の死を以て退けられた。それ以後、不安定な時代が続いたと昨夜、言ったな。
「うん。それから、信仰が日神様に偏り始めたんでしょう?」
 ――そんな中、俺が次の月曜神として誕生した。それから十数年続いた悲劇の時代に、再び予言が下った。
 月神の言葉が、数日前の記憶を呼び起させる。あの時、商店街で耳にした胸に刺さるような言葉が、その結論へと満月を導いた。
「繰り返す……輪国の人たちは、月神が悲劇を繰り返そうとしているって言ってた――同じ予言が、下ったのね」
 語尾が擦り切れそうなほど、掠れた。
 ――今度は相手が羅睺ではなく、計都だが、そういうことだ。
 満月はそこで、少し言葉を詰まらせた。先代は、自らの犠牲によって、国を守ったという。そんな大きな犠牲を伴う事件と相見えて、ただの女子高生でしかない自分に出来ることはあるのだろうか。
「手はあるの? 貴方は、どうするつもり?」
 その問いと共に、今朝、夢に見た情景が、瞼の裏に蘇ってくる。
 羅睺神の元へ行くと言った明螢。そして、ただの女子高生でしかない満月と交信を続ける月神。月神が、明螢以上の上手い作戦を隠し持っているとは信じがたい。ならば、この事態に月神の取る方法は、何なのだろう。
 学校で感じた不安は、更に色濃くなって満月に付き纏う。返事をしない月神とこのまま向き合っているのが怖くて、満月は頭の片隅にあった引き出しを急いで開けた。
「月神……貴方のお母様は珱希さんという人?」
 刹那、糸が細く張り詰めた。月神と直接相対している訳でもないのに、空気が、凍えるように冷たい。何気ない質問のつもりだったが、月神にとっては大きな意味を持った問いなのかもしれなかった。
 ――何故。
 掠れるような響きが迫った。狼狽した満月は、中々言葉を選ぶことが出来ない。
「夢、夢で見たの。月神によく似た男の人と、妊婦さんみたいな人が喋っていて……それでお互いを明螢と珱希って呼び合っていたから」
 月神の溜息が落ち、満月は思わず息を呑んだ。
 ――珱希は、俺を生んだ女で……先代月姫だ。お前が見たのは、過去夢カコムだろう。
「先代、月姫……」
 重い衝撃が、叩きつける。鼓動は早鐘を打ち、握り締めた拳はじっとりと湿った。
「その人も、こっちの生まれの人?」
 ――そうだ。
 その答えに、満月の心は僅かに弾んだ。あの珱希という女は、満月と同じ境遇を辿ってきたのだ。ならば珱希は、唯一満月を理解し得る人物であるだろうし、何か助けになってくれるかもしれない。
「今は、どこにいるの?」
 期待を込めてそう尋ねたが、月神は長い沈黙の後、やっと重く閉ざされた口を開いた。
 ――死んだ。
 どくん、と心臓が脈打った。重く昏い衝撃が追い討ちを掛ける。柔らかに射した陽光は、一瞬のうちに潰えた。
「死ん、だ――?」
 自らと深い隔たりのある言葉が、唐突に目の前に降り立ったような気がした。これまで、先代月神や羅睺神の死を口伝てに聞いても、そこまで波のある感情の起伏が現れることはなかった。しかし、同じ国で生まれ、同じ役目を負った、満月とそう歳も変わらない女が死を迎えたともなれば、話は別だ。
 満月はか細い息を、震わせ漏らす。
 他人事のようにしか構えられなかった自分が、今になって酷く非常識なものに思えてきた。満月も、既にれっきとした輪国の関係者だ。どうして自分とは関係のない言葉だと思えたのだろう。
「珱希さんは、どうして……亡く、なったの」
 ――話せば長くなる。簡単に言えば、明螢の後処理のようなものだ。
 淡白な答えを、受け流しながら、満月は輪国で聞いた晴尋の冷たい刃のような言葉を思い出した。晴尋は、この前は満月を日本に還すだけに留まったが、今度はどうなるか分からない。次に満月が輪国を訪れた時には、死と隣り合わせの生活が待っているのかもしれなかった。
 黙りこくってしまった満月に、月神の夜の静けさのように冷えた声が降ってくる。
 ――お前には、選択肢がある。それでも、来るか?
 月神の問いは、可笑しなほどの矛盾を孕んでいた。
「貴方、初めに会った時に言ったよね。惑うなって。月神は私にどうして欲しいの」
 ――中途半端な覚悟では、月姫は勤まる役ではない。だが、輪国の状況を鑑みれば、お前のような者に頼らざるを得ない。
 その答えは、月神の中の迷いを表しているようで、満月は心が揺れるのを感じた。この人は、ただただ輪国のために心を砕いているのだと、今なら分かる。
「私の住んでいる国では、滅多に生死の危険はないの。だから、凄く凄く怖いよ。私にとっては、やっぱりこのぬくぬくとした安全な場所が現実で、輪国の方が非現実的に思える。だから、そんな簡単に死ぬ覚悟なんて出来ない。だけど、月神と出逢ったことも玉兎やねこばあ様や狐鈴に出逢ったことも、私の中の事実で、それは変えようがない。輪国を私はもう知ってしまった。こんな私にも出来ることがあるのなら、輪国の力になりたいと思う」
 それが、今の全て。満月自身が出した、結論だった。
 迫る危険を受け止めて、輪国のために全てを賭けられるほどの覚悟はない。けれど、出来ることがあるのならば、それに対して全身全霊で向き合いたいと思う。これは、月神の言う「中途半端」にあたるのだろうか。
 ――そうか。
 その後に続く言葉を待ったが、月神の声はそこで途切れ、満月に対して感情を見せることをしなかった。本当に関わりにくい相手だと、満月は唇を軽くとがらせた。
「明日、必ずそっちに行く」
 最後にそう告げて、満月は月神との回線が途切れたのを認識した。
 全ては、明日。京華のことも、輪国のことも、上手く行きますように。そっと願って、夜空に瞬く星を仰いだ。それからすぐに、圧し掛かるようにやってきた睡魔に意識を奪われ、満月は深い闇の中に沈んで行った。


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