月姫 灯火、囚われの孤高[七]



 早朝の人気のない構内に、校庭から聞こえる野球部の太い声が駆けて行く。
「有り得ないわ」
 京華の第一声は、正しくそれだった。事の次第を説明した満月に、京華は唖然とした表情を向けている。想像とは違ったが、やはり全否定されてしまったようだ。
「うん。突拍子もないこと、言ってるっていうのは分かってる。だけど、」
「同情が欲しい訳じゃないって言ったわよね」
 陰った視線が、満月を貫いた。
「違う。そういうんじゃないの。私が、数日前まで学校を休んでたことは知ってる?」
 京華は、満月の脈絡のない話に、訳が分からないといった様子で曖昧に頷いて見せた。
「私、休んでいた間、違う国に行っていたの。でも、望まない形で日本に帰って来ちゃったから、今日、またその国に行こうと思っていて」
「だから、私たちが代わりに黒川さんの家に居座っていいとか言うんじゃないでしょうね」
「次にいつ、帰れるか分からないの。家には、お父さんと私しか居ないから、またお父さん、独りになってしまう。だから、」
 京華は、満月の瞳をじっと見据えた。そこに、同情が含まれていないと言ったら嘘になる。けれど、弟が救われる可能性を、自ら潰すのはあまりにも馬鹿げている気がした。
「お会いしたい、とお父様に伝えて。午後は特に予定が入ってないから、会えると思う」
 満月の表情が、見る見るうちに蕾が花開くように華やいだ。暖かに沁みるものが、胸を侵食していくのが京華には感じ取れた。
「貴女には、負けるわ」
 小さな呟きは、満月の耳を掠めることなく散り消える。携帯を持ち出して、ボタンをプッシュし始めた満月を、京華は苦笑して見つめた。

 模試が終わるとすぐに、満月は京華と共に近くのファミレスに向かった。到着すると、幾ばくか表情を硬くさせた悠里が手を振って、満月は背後の京華を振り返ってからその席に着いた。
 京華と悠里が同時に頭を下げたのを見て、満月はちょっと笑った。何だか、どうにか話がまとまりそうな予感がした。
「長永、京華ちゃんだね?」
「はい」
 緊張はしているものの、京華の受け答えに気後れしたところはなかった。悠里の瞳が、面白そうに強い光を放つ。
「満月の父の、黒川悠里です。満月から、話は聞いているよ」
「はい。私も大体のことは聞きました。ですが、本当に……」
「黒川家には、決して破ってはならない掟が二つあります」
 京華の言葉を遮って、唐突に悠里は宣言した。京華を見つめる悠里の瞳は真っ直ぐだ。
「一つ、自分以外の全てのものを大事にすること」
 悠里が掲げた右手の親指が、ゆっくりと折られた。
「二つ、自分を大事にすること」
 人差し指が折られて、京華は僅かに震えた。
「この二つが守れるのならば、僕は君を歓迎します。勿論、弟君もね」
 空気は穏やかだった。けれど、交わる視線は真剣そのもので、満月は一瞬息が詰まるのを感じた。
「守ります。必ず。あの子も、絶対」
 声は凛と響き、そこで京華と悠里の間が目に見えない何かで繋がったようだった。
「それじゃあ、君は今日から僕の娘だ」
「随分、あっさりしていますね」
「うん。君なら家族になれるって、一目見て確信したからね」
 悠里が笑って言って、京華ははにかむようにして笑った。
「黒川さんと、姉妹になるのね」
「長永さんも名字が黒川になるんだから、黒川さんって呼び方じゃ可笑しいよ」
 満月は言って、自分も京華を長永と呼んでいることに気づく。
 悠里の朗らかな笑いが聞こえて、満月は京華を遠慮がちに見やった。
「京華ちゃん、って」
「それでも可笑しいわ」
 呼んで良い? と尋ねる前に一刀両断されて、満月は沈黙する。
「京華で良いわ。私も、満月と呼ぶから」
 そう冷静に告げた京華の頬が、ほんの少し紅く染まっていることに、悠里だけは気づいた。満月はというと、どうやら自分だけが呼び方一つでまごまごしてしまったことに、恥じ入っているらしい。中々可愛らしい娘たちだ、と思いながら、悠里は話し合いを再開した。

 炎の匂いがした、と玉兎は思った。実際に、火の手が上がっている訳ではない。だが、凍てついた月を焼き尽くすような灼熱が、ゆっくりと着実に近づいていた。この感覚は、以前にも味わったことがある。だから、玉兎は瞬間的に月神を見上げた。
「まだ遠い。それに、こうなることは分かっていた」
 月神はゆらりと立ち上がり、真剣を手に取ると、再び玉座に寄り掛かった。
「月姫のことは、どうするおつもりです」
「日の者たちを退けてから呼び寄せる。あれは戦いに慣れていない」
 玉兎も、そうするべきだと思った。一刻も早く会いたいのは山々だけれど、満月は育ってきた環境があまりにも違いすぎる。過酷な状況に満月を置けば、それだけでも彼女は崩れてしまうかもしれない。
 そんなことをぼんやり思っていた時だった。月神の指先がぴくりと痙攣を起こし、眉根に皺が寄った。
「まだ日が沈んでなどいないというのに」
 月神は忌々しげにそう吐き捨てると、流れ込んでくる暖かな「気」を、押し返そうとした。しかし、如何せん、それが上手くいかない。満月はどうやら、どうしても今、月神と繋ぎが取りたいようであった。この所、毎晩異界との交信をして来たというのに、満月の精神力は弱るどころか強固なものになるばかりだ。
「何だ」
 驚くほどの冷たい声に、狼狽といらつきの混じった満月の声が応える。
 ――何だ、じゃない。こっちは一刻でも早くそっちに行こうとしてるのに、何で拒否するのよ。確かに、輪国が大変な時に三日間も猶予を貰ったのは、申し訳ないと思うけれど。
 満月はどうやら、月神が自分を拒んだことに気づいたらしい。こちら側で何かあったのかもしれないと思ったのだろう。切羽詰まったような激しい「気」が送り込まれてきたが、月神の受け答えでそうでないと知り、その対応に苛々している。
「今は、立て込んでいる。後にしてくれ」
 ――やっぱり何かあったの?
 切迫した声が、月神の耳にきんきんと痛かった。
「否、まだ、」
 言葉を濁した月神に、はっきり答えて、との満月の怒号が飛ぶ。
 ――私が必要でないのならそう言ってよ。神様が何の取り柄もない女子高生に頼らざるを得ない程に、輪国はどうしようもない状況なんでしょう? 立て込んでいる状況をどうにかしたくて、最後の賭けで私なんかを呼んだんでしょう? 私が輪国にとって要らない存在ならば、そう言って。私は、輪国に行くことを選択したけれど、月が月姫を拒否するなら、私が輪へ行く意味はなくなってしまう。
「……今は、来るな」
 数秒の沈黙はあった。けれど、月神の意志は頑なで、揺らぐ気配がない。
 ――無理矢理私を攫って来たり、勝手に月姫に任命したり、死に物狂いで辿り着いてみろと言ったり、かと思えば選択肢があるとかふざけたこと言ってみたり、あまりに横暴な人だと思ってたけど。今は来るなって、何なの。じゃあ、いつ行けば良いのよ。そういうの、自己中っていうの! 知ってた?
 満月のあまりの剣幕に、月神を介して話を聞いていた玉兎はおろか、月神までもが言葉を失ってしまったようだった。
 ――私を輪国まで案内する気があるの、ないの、どっち?
 月神は辛うじて、ない、とだけ答えた。
 ――そう。じゃあ、もう勝手にするから。
 余韻さえ残さず、満月の言葉も気配もそこで掻き消えた。

「それじゃあ、お父さん、悪いけどお願いします」
 真冬の夕刻は、まるで深夜のような闇と冷たさを醸している。無人の公園で、月神との交信をぶち切った満月は、悠里と京華の待つ車に戻ると、そう告げた。
「今から空港に向かうの? 空港まで何時間も掛かるの、知っているでしょ」
 京華は呆れたように言って、満月の冷えた手に携帯用カイロを投げた。
「えーと」
 視線を泳がせる満月と、訝しげに表情を曇らせる京華の間に、悠里が割って入る。
「満月が行っていた国のホームステイ先のお家の方が、満月を迎えに来てくれていてね。二、三日くらい観光をしていらしたらしいんだけど、今日は満月も呼んで一緒にご飯を食べて、それで明日の早朝、出国することになっているんだ」
 中々、見事なフォローではあったが、京華はまだ疑りの目を満月に向けていた。
「じゃあ、何で満月は空白の数週間、留学じゃなくて可笑しな病気と怪我を連発させて、学校を休んでいたのかしら」
 何とか口を開こうとする満月と悠里を制止し、京華は零れ落ちた髪を掻き上げた。気にならないと言えば、嘘になるが、明らかに嘘を吐くことに慣れていない満月が、精一杯悩んで吐いた嘘だ。ここは譲歩して然るべきであろう。
「まあ、そういうことにしておいてあげるわ」
 それから満月は、悠里に頼んで三十分ほど車を走らせた所にある都市部に向かった。
 暗闇の中だというのに、煌々と照明が辺りを照らし、悠里と京華の姿が満月にははっきりと見て取れた。
「必ず、帰るから」
 悠里の胸に額をぶつけて、満月は噛み締めるように呟いた。
「待ってるよ。身体に気をつけて」
 何となく目を逸らしている京華に向かって、満月がぎこちなく微笑む。
「京、華。帰ってきたら、一緒にどこか遊びに行こうね。それから、私の弟に宜しく」
「分かったわ……色々ありがとう、満月」
 手を振って、満月はビル街の中を進み始める。振り返ってもう一度二人の顔を確認したかったけれど、そうすれば耐えきれなくなって泣き出してしまいそうだったから、満月は二度と振り返らなかった。暫く経って、後ろの方で車のドアが閉まる音が聞こえた。エンジン音が響いて、名残惜しむように躊躇いがちに、車の音が遠ざかって行った。
 満月が選んだのは、このビル街で最も星に近い所まで細長く伸びた、名の知れた会社の高層ビルの屋上だった。忍び込むのに少々手間取ったが、幼い頃かくれんぼが得意だったことは今も健在で、一気に屋上まで駆け上った。
 傍から見れば、とんでもないことをしでかそうとしているように見えるのだろうな、と満月は思った。しかし満月には、確信があった。必ず、輪国に辿り着く。それは、推測でも予感でもなく、自分の中の事実となっていた。
 肌を刺すような風は、きりきりと満月を追い詰める。フェンスを踏み越え、屋上の端っこに立つと、それは一層際立った。ポケットに仕舞い込んだカイロが僅かに温かい。見上げると、凛凛と光る星が漆黒のヴェールに点々と散らばっていた。それなのに、月の光はどこか朧に見える。
 瞳を閉じて、月神を思い描いた。引力が、満月の向かうべき場所をはっきりと示していた。
 月神は、あまりに横暴であったが、そのお陰で分かったことがある。月神のことだけを考えていれば、確かに引力を、延いては輪国を近くに感じられる。
 輪国へ行く方法は、月神との交信と、満月を輪国へ導いたあの奇妙な光の粒子とを融合させればすぐに思いついた。
 要は、満月が月姫であり、引力を備えていることが重要だったのだ。引力は正確に輪国のある位置を示し、また、光の粒子の作用の仕方は、満月の意志が鍵となっている。だが、今、月には使える力が少ない。だから、月神は満月との繋ぎを取るために、精神力を代用した。光の粒子の代わりに精神力を使用したとすれば、満月が輪国へ行くためには、満月自身さえ存在すれば可能となる。
 それを思いついて、満月は月神と繋ぎを取った公園の砂場に立って、その方法を試してみたが、暖かな粒子は身体に纏わりついただけで、満月を浮かせることはなかった。だが、アスレチックの五十センチメートルほどの段差から飛び降りてみて、僅かに浮遊感を感じたから、次は滑り台で試してみた。すると、地面に着く直前、身体がほんの数秒、そこで停止したのだ。そこで、満月は確信した。やるなら、高層ビルが適している。
 眼下の景色は、満月を怯ませるには充分であったが、それで満月は諦めなかった。下手に高度のない所から飛び降りれば、怪我を負う恐れがあるが、これだけの高さがあれば、途中で上昇出来る可能性がある。何より、落ちたら即死間違いないから、否が応でも浮き上がらねばならない。恐怖の感情さえも、満月は利用しようと考えた。
 一歩、踏み出して、息が震えた。やれる、と思っていても、実際にやってみるのは全然違う。
 もう一度、月神を思って、満月は己を抱き締めた。行ける。行かなくてはいけない。
 ううん、私が、行きたいんだ――。
「輪国へ、」
 奏でるように囁かれた言葉が、宙に舞う。それを合図に、足裏が地面を離れ、身体が虚空を落ちて行く。隣のビルの、十階を過ぎた。落下速度が一段と増してゆく。
 九、八、七、六、五、四――。ぐい、と引っ張るものがあった。内側から漏れ出た粒子が煌めき、天上へと満月を持ち上げてくれる。相当の力が消費されているのが、分かった。ここで、集中力を切らしたら、地上へ真っ逆さまだ。ただただ、月神を思った。上昇してほんの少しの安堵感を得たのも束の間、今度は黒い波に意識を持って行かれそうになる。満月は自分の腕を思いきり噛んだ。痛みがどうにか意識を保ち、満月は更なる関門を突破した。
 吸い込まれるような感覚の後、視界が開けてきた。眼下に、輪国の景色が広がる。
 ほっと息を吐いて、満月は後悔する。それまでどうにか保っていた集中が、今、途切れた。甲高い叫び声と共に、満月は急速に落下して行く。目を瞑りそうになりながら、それでも僅かに広がる視界の中で、満月は見た。
 夜空を、朱く燃える巨大な鳥が、飛んでいた。


BACK | TOP | NEXT