月姫 空夢の間[一]



 木の葉を伝った滴が、窓越しの水溜りの上をぴちょんと跳ねた。
 ひっそりと沈む洋館の、夜明けである。
 暫く、眼を瞑って水音に耳を傾けていた老婆は、ゆっくりと瞼を押し開けた。そうして、差し込んできた僅かな光に眩しそうに目を細める。それでも霞む視界の中、老婆は目を凝らした。昨晩から降り続いた大雨は嘘のように止み、遠く向こうの雲の切れ間からは、朝日が覗いている。
 影を纏い立ち上がった老婆は、そらより遥か上空を見上げた。無論、老婆の視界に映るのは薄汚れた天井ばかりで、特に何が見えるわけでもない。しかし、老婆はそれを見上げ、口元を引き締めた。
 ぴちょん、再び水飛沫が立つと、老婆の濁った瞳は再び地上を映し出していた。
「満ちる術はなく、今は欠け消えるのを待つのみといった所かね」
 しかし、唯一つの希望が今、舞い戻った。唯一人、孤高の神を救える可能性を持った少女――月姫、満月。延いては、国をも救い得る器と真心を満月は持っている。
 老婆は、再び目を閉じると、安らかな記憶の中へとまどろんでいった。

    ※

 満月は跳ね起きた。香時計が示す時刻は、満月の希望より幾らか早めの時を示している。安堵するのも束の間、満月は寝具を脱ぎ去り、うちぎを引っ掛けた。未だに着物には慣れないが、簡単な衣装ならば、以前着付けて貰った時のことを思い出しながら袖を通すことは出来た。
 尋ねたいことも問い詰めたいことも、山ほどあった。だというのに、昨夜は玉兎が満月の腕を気遣い、すぐに寝所に向かわされた。月神も、玉兎のその気遣いに肯定――正しくは無言の圧力――をするものだから、堪ったものではない。
 寝所を早々に出て、満月は回廊をひた走った。途中で腕が痛むことに気づいて、包帯の真白に滲んだ赤を認める。そういえば、そんなこともあったのだなと頭の隅で声がした。本来ならば、強く覚えていて良いはずのことだ。だのに、昨夜の出来事は、既に満月の中で過去のものとなっていた。
 どうして、と月神に問われた時、憤ったのを覚えている。目の前で殺されそうになっている者を、見捨てたりは出来ないからだ。それに、月神が当然のように満月の助けを訝しむのも納得が出来なかった。月神の問いは、月神と満月の、否、月神と周囲の間に出来た溝を浮き彫りにした。
 次に訪れたのは、冷静になって考えてみた後、姿を現した理性からくる戸惑いだった。助けたことを後悔するつもりはない。けれど、どうして自分は、あまり良い印象を抱いていない相手を、命を賭してまで助けてしまえたのだろう。
 怖い、はずだった。毒矢も、剣戟も、正体不明の炎も。ひょっとすると、獣形をして人間の言葉を喋る玉兎や、神と祀られる月神や日神までも。ここは、あまりにも非現実的で、満月には理解に苦しむ世界だった。それなのに、どうして――。
 後悔ではなく、戸惑い。この非現実的な世界に飲み込まれていってしまうのではないかという、底なし沼のような不安。日本で、輪国へ行きたいとただ模索していたあの頃では気付けなかった思いが、身体中を駆け巡っていた。
 異世界が、異世界ではなく自分の世界になって行くような感覚は、嫌ではなかったけれどどこか恐ろしかった。
「姫様!」
 焦りの入り混じったような鋭い声に、満月は戦慄いた。迷宮に入り込んでしまうように思われた意識が、突然、覚醒した。
「環?」
 駆け寄って、沈黙が一拍。その顔をまじまじと見つめて、満月が恐る恐る問い返した。良かった。本当に、環は無事だったのだ。
「昨日は、ごめんなさい」
 俯いた満月に、労るような環の優しげな声が降り注ぐ。
「姫様がお優しいお方だと言うことは、存じ上げておりますわ。けれど、どうかお気になさらないで。姫様をお助けしたくて、私共が勝手に行動しただけなのです。それで姫様にそのようなお顔をさせてしまっていては、本末転倒ですわ」
「ごめ……ありがとう」
 笑顔でそう返すと、環の顔から陰りが拭い去られた。しかし、すぐに表情が引き締められ、咎めるような視線が満月に注がれる。
「それより、姫様。そのようなお怪我をされていらっしゃるのに、あんなに走られるとはどういうことなのですか」
「え、だって、昨日玉兎に部屋に無理矢理放り込まれたから……まだ昨日のこととか、これからのこととか、何にも聞いてないんだよ」
 真実その通りの弁明だが、どこか言い訳がましい。
「――けれど、お聞きになられましたわ」
「え?」
「真実を、お知りになられましたでしょう」
 満月は、ふんわりと微笑む環を見た。輪国に来たばかりの頃の自分が、懐かしく回想される。
 あの頃は、何一つ知らなかったのだ。
「……うん。色々、あったけど」
 呟いて、満月は回廊の外へと視線を外した。すぐ近くの空に、薄らと虹が橋を渡していた。

 本殿に入り、満月は真っ直ぐに廊下を進んで突き当たりを折れた。暫く振りの厳かな扉を前にして、ようやくそこが月神の寝室を兼ねていることを思い出した。
 遠慮なく、入って行って良いものではないだろう。しかも、まだ辺りは薄明るくなり始めたばかりで、月神が寝ている可能性は十分にある。扉を叩く音で起きてしまったなどと、難癖を付けられては面倒だ。月神の横暴さに腹を立て、満月も月神に対しては大分不遜な態度で挑むようになったが、調子に乗り過ぎるのも良くないだろう。
 迷った挙句、満月は部屋の内部に耳をそばだてることにした。所謂、盗み聞きだ。起きていたら、多少の物音が聞こえるかもしれない。
 扉に、ぴったりと耳をくっつけて、待つこと数十秒。いつまで経っても、物音一つ聞こえてこない。やはり、まだ寝ているのか。それとも、この重々しく閉ざされた扉は、相当な防音効果を発揮しているのか。
「何をしている」
 悪戯がばれた小さな子のように、満月は肩を竦めた。縮こまったまま声の方を振り返って、あっと声を上げる。目当ての人物が、仏頂面で満月を見つめていた。
「入って良いか、分からなくて」
「良い」
 簡素な答えに、満月は呆れた。
「……おはよう?」
 覚えず疑問調になった挨拶に、月神の眉がぴくりと反応する。
「……腕は」
「は?」
「腕は良いのかと聞いている」
 そんなこと、今初めて聞きましたけど、と言いかけて満月は口を噤んだ。口下手な月神なりの心配の仕方だったのだろうと思うと、何だか嬉しい笑みがこぼれた。
「何か、可笑しいか」
「可笑しい」
 くすりと笑うと、月神が怪訝な表情を浮かべた。
「貴方が、ちゃんと人間だったから」
 月神が益々眉間に皺を寄せるのが分かった。
 ああ、そうだ。だから私は――この世界にもう一度行きたいと思えたのだ。
「腕は、平気。それより、昨日のこととか色々聞かせて欲しい」

 間違った道を進み続ける月の陣営に業を煮やした日神とその一味による襲撃――昨晩のことはそういう見解で相違無いようだった。月が考えを改めない限り、このようなことは続くだろう、と極めて落ち着いた様子で月神は続けた。
「月に掛けられた呪の話はしていなかったな」
「呪?」
 聞き覚えのある言葉を反芻する。そういえば、そんな言葉を彩章は口にしていなかったか。どこか不穏な空気がその時漂ったのは、記憶に新しい。
「帛鳴の予言が下ったのは、お前がここへ来る、九ヶ月ほど前のことだ。それから三ヶ月、俺たち月は、真相を調べるために駆けずり回った。異邦の翳り、とは計都の衰退だということがそれで分かった。半年前、俺は玉兎と彩章の元を訪れ、事情を話した」
「日神様は、それを認めなかった?」
 満月が尋ねると、月神は首肯した。
「そして、遂には月を危険分子と見なし、彩章は月に呪を施した。月が今どす黒く染まっているのはその所為だ」
 満月は瞠目して、月神を見た。強い光を持った瞳に見返されると、芯から冷えて行くような心地がした。
「じゃあ、月が砕けてしまったのも?」
「……それは、違う」
 言いながら、月神はついと視線を逸らす。顔を背けながらも、月神は言葉を続けた。
「月の力が急激に弱まると、明螢の死後十数年続いた悲劇の時代を彷彿とさせるような禍が、多く起こった。現在、彩章は何とか輪を支えている状況にある」
「現状を、打破する方法は? 計都の曜神が完全に蝕となってしまえば、月神も彩章様も、延いては輪国までもが危ないんでしょう?」
「計都は、今、恐らく蝕の前段階にある。羅睺の時とは違い、全く話が通じないと言う訳ではないだろう」
「説得、するんだ」
 月神の答えに安堵しつつ、呟いた。
「だが、現状では、俺は輪国を出ることが出来ない」
「……どういうこと?」
 再び、満月の心に不安が募った。
「彩章は、俺が明螢のように神殺しをすることを恐れて曜の力を封印した。そうして、月が砕けた。俺の力不足だ」
 いきなり、月神が不機嫌な雰囲気を醸し始め、満月は首を傾げるしかない。
「力不足?」
「呪により、曜の力が不安定になった。それを俺は支えきれなかった。結果、月は砕け、四方に散った」
 淡々と語る、月神の瞳は昏い。
「呪と月の崩壊が重なっている今、月を支えられる曜神が曜から抜ければ、間違いなく月は消失する」
「だから、月の欠片を早く集めなきゃいけない? 月の消滅を食い止め、計都が蝕になってしまうのを防ぐために」
 問いかけに、肯定が返って来て、満月はきゅっと唇を噛んだ。月神はこの昏い場所から出ないのではなく、出ることが出来なかったのだ。
 哀しい、と満月は思った。輪国を救うために、罪を犯し彩章の元まで走ったのに、それは認められず、自らの曜は砕け散った。曜を出られない月神は、日にも民にも弁明することは許されない。
 満月に出来るのは、そして月神が望むのは、月の欠片を集めることなのだろう。しかし。
「日神様に理解を求めることは、しないの?」
 今の状況は、あまりにも月が不利だ。彩章が月の言葉に頷けば、きっと全ては好転する。
「彩章は、何も聞かないだろう」
 落ちた言葉は、諦めという名のそれだった。問答無用で、月神を玉兎を満月を攻撃してきた彩章の態度を鑑みれば、月神の諦めには納得してしまうのは事実だ。けれど、けれどそれで果たして良いのだろうか。同じ国を護る曜神でありながら、共に民を思いながら、思いはすれ違う。
 全てが、満月には重く感じられた。国が滅ぶか生き残るか、その瀬戸際に立っていると言うのに、何故誰もその現実さえ知らないのか。どうして、という思いが胸を抉る。
 月神から発せられた諦めの二文字は、満月の思考にまでもその波紋を広げたようだった。後ろ向きになる気持ちを叱咤して、満月は顔を上げた。
「行ってきます。輪と月と、それから貴方を助けに」
 月神が目を見張り、満月を訝しげに見た。しかしながら、昏い陰の中にある孤独の男は、それでもぴくりとさえも動くことはなかった。
 満月は身を翻し、扉に手を掛けた。差し込んできた日の光が、月神の居るその部屋に長い影をつくる。背後で扉が閉まる重たい音がした。部屋の中は暗闇と同化したのだろうか、と気付くと、満月は後ろ髪が引かれる思いに影を縫われ暫くそこを動くことが出来なかった。


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