月姫 空夢の間[八]



 肌寒さを覚えて、満月は己を掻き抱いた。昼夜を問わず日が昇らない所為で、時間感覚があやふやだったが、既に夜半を迎えていたようだ。
 環を初めとする月の精たちが帛鳴のための客間を用意するのを見届け、満月は毛布に包まり部屋を抜け出した。回廊に差し掛かり、満月は呆然と立ち止まった。庭園上空に向かって飛翔して行くものがある。紅い焔は巨大な鳥を形作っていた。
 赤鴉だろうか。一瞬、狼狽がよぎった。しかし、すぐにそうではないと気付いた。柔らかに夜空を薙ぐ翼は、月を抑圧するものではない。寧ろ、もっと月に近い――ならば、あれは誰だろうか。
 鳥が月の領域を出る瞬間、丁度満月が立ち尽くす回廊に視線が向いた気がした。紅玉の澄み切った瞳は、哀傷に歪められている。満月の胸に、底知れぬ哀感を与え、紅の鳥は再び前方に向かって力強く羽ばたいた。
 彼、だろうか。姿形は違うが、あの瞳には見覚えがあった。この輪国で、満月が一番よく知る憂いを帯びた瞳は、もしも彼だとしたならば、いつもよりどこか哀しげに満月を映した気がする。確信が持てず、満月は小さくなりつつある焔を見つめる。
 今度こそ狼狽した満月は、正殿を訝しげに見やった。そろりと足を正殿に向けて運び始める。不穏な風が髪の毛を浚って、何事かを告げたが、満月は、足を止めなかった。恐れていたら、きっと何も見えないし、変わらないだろう。
 正殿の扉は、隙間なくぴたりと閉じられていて、満月が中の様子を窺うことは不可能だった。それなのに、正殿からは、濃密な禍々しさが漂って来る。
 どうすることで、蝕の芽を取り除くことが出来るのだろう。さっき満月は、月神に触れることで、微かにではあるが蝕を取り除いたようだった。しかし、今までにだって、月神に触れたことも、触れられたこともある。
 ――あんたは、自分でその闇に巣食われた身体を制御していたつもりかもしれないけど、この子がいなかったら、あんたは疾うに蝕に成り果てていたはずだよ。
 帛鳴の口振りからすると、満月が月神に寄り添っていることで、知らぬ間に月神が完全な蝕となってしまうことを抑えていたらしい。しかし、ついさっきは、満月の中に嫌な気が降り積もってゆくのを実感できる程に、月神の蝕と関わりを持った。
 異なる点があるとすれば、満月の胸中くらいだろう。あの時、満月は月神を救いたいと心から願った。それが、蝕に影響したならば、蝕の浄化は満月の気持ちの問題と捉えて良いだろう。
 扉に手を伸ばしたが、月神を意識すればいくらか躊躇が生まれた。今はそれどころではないということを理解していても、月神という個人に対しての不信感は拭えなかった。
 それどころじゃないでしょ。もう一度、自分に喝を入れ、満月は上向いた。ゆっくりと、腕に力を込め、固く閉ざされた扉を押し開く。
 もの思いに耽るように月神はじっと部屋の隅を見つめていた。幸か不幸か、珍しく月神は侵入者に気づく様子はない。満月は慎重に、距離を測りながら月神に近づいた。
 鈍い音と共に、脛に重い衝撃が走った。暗がりのためか、視界が利かない満月は、足元に置かれた何かにぶつかったようだ。すぐに月神が鋭い視線を向けるのに気づいた満月は、悠長に痛がっている暇さえ与えられなかった。
「出て行け」
 月神は言って、真剣をちらつかせた。白銀の凛冽な光が、闇の中で鮮やかだ。しかし、そんな脅しに屈するような根性は、満月は持ち合わせてはいなかった。
「私を切る?」
 満月が死ねば、月神を継ぐ者は現れない。だから、月神は満月をきっと切れない。それが分かっているから、満月は退かなかった。
 月神は、反射的に帳台から離れ、満月と十分な距離を置いた。それは、襲われかけた女である自分の反応ではないのかと内心思いながら、満月は着々と月神との距離を縮めて行く。
「全く予想外だ。己の曜子に足元を掬われそうになるとはな」
 月神が一番奥の壁にもたれてずるずると座り込んだので、満月もいくらか距離を取って、それに倣った。部屋から持ってきた毛布を、むきだしの足に巻き付けると、寒さが和らいだ。
 月神と満月の間にすっくと立った燭台の炎は、互いの顔をゆらゆらと照らし出していた。
「それなら、私が違う道を拓くことも出来るかもしれないってことね」
 そう言って月神に笑顔を向けてしまったのは、何故だろう。月神の瞳に映った自分を想像して、満月は慌てて視線を逸らした。その後の月神がどんな表情で自分を見たのか、満月は知る機会を逃した。
 現在、月神は輪国を救うために、進んで蝕になろうとしている。継嗣を産ませることは月神の目的の一つだが、その母体となるはずの満月に近づけば、蝕への転化を阻まれてしまう。だからか、月神は満月を避けているようだ。
 力で満月を組み伏せた月神への怒りはなくなった訳ではなかった。それなのに、どうしてか満月は、穏やかな気持ちで月神の隣に居る。勿論、今度は節度を持って、三メートルの距離は保っていたのだけれど。
「紅い鳥が飛んで行くのを見た。あれは、誰?」
 問いかけに、月神の表情が僅かに凍った。
「誰と問うくらいならば、分かっているのだろう」
 何、ではなく誰、と問うたことに対しての返答だ。月神が、事実を隠したり誤魔化したりしないので、満月も本音で尋ねた。
「玉兎を、どこへやったの?」
 じわじわと侵食して来る陰に心を奪われぬよう、強く自分を持って、満月が月神を射抜くように見た。
「どこだと思う」
 そんなこと、分からない。
 嗤う月神は、その笑みがどうしようもなく哀しいことに気付いていないのだろう。満月は胸が抉られるように痛むのを感じた。
 きっと、月神は何も言わない。無自覚に、深く傷ついた顔をしているから。
 満月は静かに立ち上がった。月神を見下ろして柔らかく口を開く。
「早く休んだ方が良い。その身体は負担が大きいんでしょう?」
 輪国は真夜中、特に冷える。呪を受け、蝕となりつつある月神の身体は、睡眠などでは全く回復の兆しを見せないだろう。けれども、全く眠らないより、少しでも眠った方が良いに決まっている。
 微動だにしない月神を見やり、満月は小さく溜息を吐いた。
「ちゃんと休まないなら、私が連れて行ってあげるけど」
 淡々と言ったが、月神には充分脅しに聞こえたらしい。満月の言う通りにしなければならないことが癪に障ったのか、月神は機嫌が悪そうだ。それでも、渋々と月神は立ち上がった。
 月神が帳台に横たわるのを見届けて、満月は自分の背丈ほどある、机と思しき物体の上に寝転んだ。毛布の中で小さく丸まると、温かみを感じられて、陰の中でも心地が良かった。
「何をやっている」
 すぐさま咎めるような声が飛んで来て、満月はもぞもぞと月神を向いた。
「貴方が勝手なことしないようにと思って」
 半分本当で、半分嘘だった。月神が勝手に無茶をしないように見張っていようという思いも確かにあった。それと同時に、月神の近くにいることが蝕化を防ぐことに繋がるなら、出来る限り月神の傍を離れないようにしようという決意もあった。
 しかし月神も、満月の存在が蝕への転化を阻む脅威となることを知っている。
「お前が何かを企んでいるなら、殺すことも厭わない」
 月神はそう宣言したが、満月は狸寝入りを決め込んだ。
 全く、どこまで横暴な性格をしているのか。先刻、満月を襲ったかと思えば、今度は殺すと言う。しかし、その全てが輪国のためだと気付くと、満月は怒る気が失せるのだった。
 暫く目を瞑っていた満月だったが、そのまま眠りに落ちることが出来ずにいた。月神に全く眠る気配がないのだ。というよりも、眠ろうとしてもうなされて眠れないという状況だろうか。苦しげな息遣いが時折聞こえると、満月の緊張は募ってゆくばかりだった。
 こうして、生まれ落ちてからずっと、月神は独りぼっちだったのだろうか。
「――玉兎」
 呻き声と共に、こぼれ落ちた名に、満月は妙な胸騒ぎを覚えた。月神を盗み見て、何か彼の慰めになるようなものはないだろうかと思案する。今、満月が月神の傍へ寄っても、月神はますます警戒を強めてしまうだけだろう。満月が月神の心を紐解くことは難しい。月神を救い得る力を持っているのに、これでは逆効果だ。
 どうか月神が心穏やかに眠れるように。密やかに願い、満月はゆっくりと夢の世界に沈んで行った。

 満月は深い闇の中を漂っていた。これが、以前に見た過去夢と同様のものであると気付いて、満月は辛抱強く目の前にその光景が現れるのを待った。
 どこからともなく、月宮殿の正殿が浮き上がって来た。まるで現実のもののように満月には思えたが、やはり歩くことも喋ることも出来ない。
 隅の方に、女が白い布にくるまれた何かを抱いて、微かに笑っていた。影が落ちていて、はっきりと顔を確認することは出来なかったが、珱希だろうと満月は検討をつけた。
「明螢が死んで、勾娥こうがも死んだわ」
 珱希は、ゆっくりと腕の中のものに向かって語りかける。珱希が愛しんで見つめる先のその子は、月神だろう。
「何一つ、貴方に残すことが出来なくて、ごめんね」
 珱希が目の端から零した滴が、赤ん坊の頬に跳ねた。珱希の言葉の意味なんて何一つ分かっていない赤ん坊は、それが何か面白いことのように、きゃっきゃと笑った。
「前にね、明螢と二人で、貴方の名を決めたのよ」
 あの帛鳴をも唸らせた名なのよ。嬉しそうに珱希は言って、赤ん坊のふっくらとした頬を、指の腹でなぞった。
「――」
 それがまるで一番大切な宝物であるかのように、珱希は赤ん坊に囁いた。静寂も陰も払拭する光の渦に包まれたような、そんな錯覚に陥る。若しかしたら、錯覚ではないのかもしれなかった。
 珱希が囁いた言の葉の意味を知って、満月は溢れて来る涙を止めることが出来なくなる。
 貴方は、こんなにも、愛されていた――。
 ぼろぼろと涙を溢しながら、満月は過去への追想の幕が、下ろされてゆくのを感じていた。若しも月神が、珱希が与えたこの希望の言葉を知らないのならば、きっと話して聞かせよう。穏やかな気持ちは、満月の中に降り積もった不安を和らげ、優しさを沈殿させていった。

 ※

 矢が番えられる。闇夜を照らす鮮やかな紅を目掛けて、一斉に弩弓が放たれた。鏃が翼を貫き、肉に突き刺さっても、紅の鳥は構わず飛翔を続けた。
 真夜中だというのに、日宮殿はこれ以上ない程に騒然としていた。晴尋は舌打ちし、日の精に交じって弓を引く。確かに矢は何十本も命中しているはずなのに、紅の鳥は一心不乱に飛び続けた。
「見てらんないわ」
 泣き出しそうに、呟いたのは赤鴉だった。国の象徴の火の鳥である彼女は、今は仮の姿を取って物陰から穹を見上げていた。
「あたし、あの子を説得するわ」
 赤鴉が晴尋に叫んで、飛び出してきた。慌てて、晴尋は弓を放り投げ、少女の姿をした赤鴉を抱き留める。
「赤鴉、彩章様がお怒りになられますよ」
「彩章は怒りんぼだもの。あたしが何したって怒るんだから構わないわ!」
 赤鴉は晴尋の胸を叩きまくって、泣き喚いた。
「どうして、どうして、」
 赤鴉の頭を包み込み、晴尋は諭すように呟く。
「貴女が彩章様に絶対の忠誠を誓うように、玉鳳にもそれを向ける相手が居る」
 でも、どうしてこんな悲劇を招いてしまったのだろうか。全ては月の所為――本当にそれだけだろうか、と赤鴉はあってはならない考えを巡らせた。
 間もなく鳥は、落下するように日の敷地に着地した。慌てて晴尋も赤鴉も、紅の鳥の着地地点を目指す。目印となる紅の焔は、痛々しく燃えていた。
 周囲をすっかり殺気に取り囲まれているが、紅の鳥のむきだしの意志が、日の精たちが近づいて来ることを許さなかった。
 しかし、幽玄な態度でゆっくりと鳥に近づく影が一つあった。月と対をなす輪国のもう一人の曜神は、艶やかに微笑み、紅の鳥を見据える。
「ようこそ、我が宮へ」
 およそ歓迎などしていないはずなのに、彩章は緩やかに月の間者を迎えた。
 狂った獣のように哭く紅の鳥を、彩章は憐みの目で見つめる。
 狙いを定めたように、紅の鳥がすぐ隣にあった黒塗りの祠に体当たりをした。一瞬で崩れ去った祠には、月への呪が施されてあった。
「彩章様!」
 晴尋が叫び声を上げて、彩章に走り寄って来る。
「壊されちゃったわよ。良いの?」
 悲痛な声で、赤鴉が問うた。赤鴉が心を痛めているのは、祠が破壊された所為ではないだろう。それを知っていて、彩章は赤鴉の額に唇を落とした。
「これだけ、玉鳳が傷ついたのだ。月への呪と、玉鳳の傷と、果たしてどちらが月にとって重いのか」
 残酷な言葉だったが、それもこれも全ては輪国を守るためだった。だから、晴尋はゆっくりと尋ねる。
「殺さないのですか」
「そう簡単に死ぬ相手ではあるまい。こちらに犠牲が出るよりは、このまま大人しく帰した方が得策であろう」
「彩章の温情に感謝することね。早々に立ち去りなさい!」
 赤鴉が怒鳴り散らすように言った。目的を果たしたのなら、兎に角早く、この地を去って欲しかった。
「それとも、我らを討つ覚悟で乗り込んで来たか」
 鋭く常盤色の瞳が光り、見つめてくるのを、紅の鳥はしっかりと見つめ返した。
「……月神、様は――貴女を、殺、さな、い」
 息も絶え絶えに、けれど強く言い放ち、紅の鳥は宙へと浮上して行く。彩章の瞳は一瞬見張ったが、特に変化なく何事もなかったように焔が彼方へ消えて行くのを見つめていた。
 彩章は、曜の光を失った東の地を見据える。呪が解かれたというのに、一向に月は輝き出さない。月は砕け散っているというから、その所為だろうか。赤鴉を見やると、彼女も複雑そうな顔で、もう見えなくなった紅い焔の光を追いかけていた。


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