月姫 花氷の行方[二]



 蝕が取り除かれて初めて迎えた月の宮の昼時は、冷涼とした空気に満ちていた。まだ月は欠けたままで、完全な姿を成しているとは言い難いが、これでも少しは本来の姿に近づいたのだと満月は思う。黄金の輝きは細雨に似て、宮殿に彩りを添える。それを受けた九螢の瞳には、清宵せいしょうのごとき瑞々しさが湛えられていた。
 満月と玉兎を伴い、還御した九螢の傍に跪き、月の精たちが一斉に頭を垂れる。整然としたその様に、九螢は一瞥をくれると、涼やかな横顔のままに言を落とした。
「間もなく、日の側で動きがあるだろう。彩章がどのような対応を取るか分からない。準備を怠るな。説明は、後だ」
 衣を翻して、九螢が主殿の置かれた方角に、足を運ばせる。彼の目には、既に輪国の先が見えているのだろう。満月は粛々と九螢の背を追いながら、そんなことを思った。
 主殿の玉座は、もう影を纏ってはいなかった。玉座は光の中で、主の帰りを待つ。そこに自然な所作で腰掛け、九螢は満月と玉兎に冴えた眼差しを向けた。
 ここからが、本当に頭を捻らなければならないところだ。九螢の蝕化は止めても、根本的な解決には、まだ全く至っていない。
 遅れて、帛鳴が主殿に姿を現した。満月は喜びの声を上げたいのを我慢し、九螢に向き直る。
「九螢。赤凰と約束したの。日神様に罪を犯させるような真似はさせないと」
 九螢は蝕にはならなかったが、今回の騒動で輪は大きく揺らいだだろう。
 幸い輪国中央に位置する農村部は、先の禍により人が出払っていたため、人命を左右するような大事に至った訳ではなかった。元より、それを知っていて九螢は、その場所を月神としての己を終える地として、そして完全なる蝕に生まれ変わる地として選択したのだろう。しかし、だからといって輪国に影響が全くなかった訳ではない。彩章は、勿論輪国の変異に気づいただろう。
 何より、月に偵察に行ったきり、己の曜の曜命と曜子が戻って来ないのだ。まず疑われるのは、月だろう。
 満月はその可能性に気づいて、もう少し上手くやっておけば良かったと、今更ながらに後悔した。
「あの状況で、月姫はよくやったよ」
 満月の心中を察してか、玉兎が労いとも慰めともつかない言葉を掛ける。玉兎は月の宮までの帰り道にも、昨日の日とのやり取りを説明する際に百面相をする満月を何度も励ましてくれた。満月は苦笑交じりに、何度目かのありがとうを呟く。
「彩章が月に乗り込んでくるにしても、日には曜命が居ない状況。到着までにまだいくらか時間はあるだろうが、あの性格だ。乗り込んで来た途端に、皆殺しということも、ないとは言えない」
 物騒な言葉に満月が竦み上がる。だが、約束したのだ。計都国へ向かった赤鴉と晴尋に報いるためには、殺しはおろか、戦い自体を避けなければならない。赤鴉と晴尋が守った月の意志だ。ならば、今度は満月が日を守る。
「戦いは、必ず避けなきゃ。日神様に害を為しても、こちらが攻撃を受けてもいけない」
 満月の意向を汲み取り、九螢が無言の肯定を示した。
「だが、それが難しいな」
 九螢の言葉が、重い沈黙を招いた。以前、彩章と相対した時、聞く耳を持ってくれなかったのを思い出す。隣の玉兎と共に、満月は項垂れた。
「果たして、そうだろうかね」
 帛鳴が、初めて声を上げた。
「月姫。あんたの蒔いた種は、ちゃんと芽を出して、花を咲かせた。そろそろ、新しい芽も芽吹いた頃だろうよ」
 意味を量りかねて、満月は困惑の表情を覗かせた。
 と、表の方から、微かな音が聞こえてくる。玉兎がそばだてた耳が、ぴく、と震えた。
 次第に音は大きくなり、主殿に迫って来る。そこにあるのは敵意ではない。満月は訝りながらも主殿の扉を開け放った。
「姫様、祠に――」
 環の、そして月の精たちの、狼狽と畏怖と歓喜と興奮とが綯い交ぜになった熱気が伝わって来る。彼らは口々に何事かを呟き、門の方を指差す。
 九螢が、玉座から立ち上がった。玉兎も、慌てて満月の傍に駆け寄って来る。帛鳴だけが、淡い笑みを浮かべてその様子を見守っていた。
「門の向こう……?」
 満月が呟き、九螢を振り返った。
「玉兎。飛べるか」
「お望みとあれば」
 庭園に、火の鳥が翼を広げた。満月と九螢を乗せた大鳥は、戸惑いを孕んで飛翔する。門の向こう側へ、下界へと、風を切る。
 神域と下界との境が迫るにつれ、耳を掠める雑音が明瞭なものになってくる。涼風が運んで来たざわめきの規模に、満月だけでなく九螢までもが耳を疑った。
 門を越える。祠が見えた。
 そこに広がる光景に、満月は釘付けになった。眩しい程の黄金の光は、先刻宮中を彩っていたそれの比ではない。
 人の道があった。普段は閑散として人気のない風景を、人という人が覆い尽くしていた。またその行列は、何百という人が集まって出来た、一つの生き物のようにさえ見える。その生物は、祠を頭にして、急な石段をうねり、遥か下方の鳥居をくぐっても尚続く。
 人々の誰しもが、その手に、その腕に、或いは隣の人や仲間の手を借りて、「それ」を持っていた。
 九螢が、玉兎が、そして満月が欲したもの――月の欠片。月を嫌悪していた彼らが、月を救い得る貴重な品を手に、月の光の元に集まったというのだろうか。人々にとって、散り散りになった月の欠片を己の手元に置くことは、月に対抗する有力な手段であったはずなのに。
「何故……!」
 九螢が絞り出すような擦れた声を上げる。
 確かに満月は、月の元に欠片を返してくれるよう、頼んだ。けれど、こんな行列が出来るほどの人数に向けて頼んだ訳ではなかった。せいぜい街一個分が良い所だ。それに、玉兎と共に街の者に頭を下げて、まだ数日しか経っていない。それなのに、どうして。
 行列の中の一人が、舞い降りてくる影に気づいて、声を上げた。瞬く間に、どよめきの波が沸き起こる。
「玉鳳だ……! お母、お父、玉鳳だよ!」
 はしゃぐ子供の頭を掻き撫で、母親が泣き笑いして天を仰いだ。
「お姿を、お見せくださるなんて」
 祠の周りの人垣が割れた。そこに降り立ち、玉兎が翼を休める。
「満月」
 出迎えてくれた見知った顔が、少し誇らしげだった。
 それで、満月はああと理解する。彼女や、彼女の仲間たち――商店街に華を咲かせた人々が、満月たちの思いに応えてくれたのだと。満月たち月を、信頼に値すると認めてくれたのだと。
 満月は狐鈴の名を呼ぼうとしたが、胸がいっぱいで声が出なかった。代わりに零れた涙に、人々が動揺し、騒然とする。
「姫様、どうされたのですか」
「私たち、また月姫様のお心に障るようなことを……?」
 満月は両手で顔を覆って、その場にしゃがみ込んだ。
「腹でも痛いのか?」
 本当に心配そうに尋ねる声に、聞き覚えがあった。禍が商店街を破壊し尽くした時、手を貸した月を真っ向から拒絶した。そして、戸惑い、躊躇って、月を認めた。あの時の、狸だ。
「違うの。本当に……、違うの」
 身体の内を高揚させる、熱い熱。こうして月を認めてくれたことが、こんなにも嬉しい。人が人を想う気持ちは、一人の胸には収まりきらず、身体から抜け出して人から人へと伝わってゆく。繋がりとは、正にこのことを言うのだと、満月は思った。
 満月は崩れた顔を拭い、猛然と立ち上がった。棒のように突っ立ったままの九螢の袖を強引に引っ張って、皆の方を向かせた。
「――っ。お前」
 九螢の咎める声には耳を貸さない。
「貴方がそんな所にいてどうするの! ちゃんとこっち来て。皆を見て」
 九螢が顔を上げただけで、人々の顔がこれ以上はない程にほころんだ。晴れやかな空気が、どんと音を立てるように広がる。
「月神様」
 最初に跪いたのは狐鈴で、その声は泣き出しそうに震えていた。
「七年前のことです。私の母が幼かった私を抱いて、恐れ多くもこちらのお社を訪ねた時のことでございました」
「お前はあの時の――黄珠の娘か」
「左様にございます。月神様は、当時病に冒されていた私をお救いくださりました。今、私がこうして幸福に生きていられるのは、月神様がいらっしゃったからにございます」
 九螢の瞳が揺らいだ。
「面を、上げよ」
 狐鈴が、おずおずと上向く。しかし、狐鈴に倣って地に頭を擦りつけてしまった人々の多くは、まだ畏まったままだった。
「皆、顔を上げて。こっちを向いてください」
 満月の呼びかけに応じる者は、いない。この国で、信仰する神は絶対のものだった。それを十数年の間、彼らは否定してきたのだ。きっと彼らは、その心苦しさや罰の悪さに、下げた頭が上げられないのだろう。
 私は、私たちは、これ以上ない程の喜びに包まれているというのに。
 満月は歯噛みした。九螢と皆に、目と目を合わせて向かい合ってほしい。それがきっと、両者の心のわだかまりを除くことに繋がると、満月は思う。
 つと、眼前を覆うものがあった。満月は驚いて目を上げる。九螢の背、だった。その背は、いつになく背筋がピンと張られ、堂々としているように見えた。
「皆、こちらを向いてくれないか」
 それは、満月が初めて聞く声音だった。穏やかで柔らかく、それでいて威厳に満ちた神の声。決していつもの不遜な様子は見受けられない。
「先代である明螢、並びに現輪国曜神である俺が不甲斐ないばかりに、皆には迷惑と、心配を掛けた。月の所為で失われた命も少なくはない。大切に思う者を失った者も、この中には大勢居るだろう。謝って済むことではないが、本当に申し訳なく思っている」
 九螢は一度腰を折り、それから一瞬迷って、地面に両手と膝をつけた。人々が息を呑み、頭を下げた九螢を凝視する。数拍の後、九螢は頭をもたげた。座り込んだままの人々の目と、九螢の目が、同じ高さで交わる。
「皆が、月の言葉を信用出来ないのも無理はない。だが、どうか聞いて欲しい」
「――月神様よ」
 九螢の言葉を遮ったのは、狸だった。徐に立ち上がり、人々を見回す。そして、狸は九螢に視線を戻すと、にかっと笑った。
「神様に嘘吐く訳にはいかねぇから、正っ直に言うぞ」
 九螢は訝り、狸を見上げた。
「確かに俺らは、月を恨んだり、憎んだりしたこともあった。あんた、じゃない――月神様なんか、死んじまえば良い。いっそ俺が手に掛けてやる、なんて馬鹿なことを思った時もあったのは事実だ」
「……そうか」
 九螢が顔を強張らせ、些か沈んだ声で言った。
「ああもう、話はそこで終わりじゃねぇんだって!」
 狸の必死な声が、馬鹿でかく響いた。人々が再びざわめき出す。
「親父は言葉がきつすぎるんだ」
 端伎が立ち上がり、九螢の元へ歩み寄って狸を諌めた。その後に狐鈴が続いて、口を開いた。
「だけど、私たち、満月や玉兎に触れて、思ったんです」
「月の言葉は、真実かもしれないと」
「姫様も玉鳳様も、あまりに真っ直ぐで」
「罵倒しているこっちが、悪者みたいに思えてきちまったんだ」
 人々が口々に思いを吐き出す。両者の間にあった壁は、がらがらと音を立てて崩れ去った。
「月神様、今までの無礼をお許しください。これまで輪国を――私たちを守ってきてくださって、ありがとうございました」
 数えきれない程の感謝の言葉が、あちらこちらから寄せられた。
 満月と玉兎は、顔を見合わせ、笑い合う。互いの顔が、涙を我慢するあまり崩れていて、おかしかった。
 ふと、遠くから走り寄って来たねずみの子が、躓いて九螢の胸に倒れ込んだ。九螢が壊れ物を抱くようにして、ねずみの子を抱き留める。ねずみの子が怖々顔を上げ、けれど九螢が怒らないと知って、すぐにこぼれんばかりの笑顔を見せた。
「僕たち、これ、月神様に持ってきたの。早く月が元気になりますようにって。これで月、元気になる? 月神様も、月姫様も、玉鳳様も、喜んでくれる?」
 ねずみの子の小さな手に、大切に大切に握り締められた月の欠片が、顔を出す。九螢の瞳が、ともすれば泣き出してしまいそうな程に、揺らめいた。九螢は俯いて、唇を噛む。
「これじゃあまだ、月は元気になれない?」
 不安げに、再びねずみの子が尋ねた。九螢は、何も答えない。
 満月は、先ほど自分が抱いた感情と、九螢のそれはきっと同じだろうと思った。そして、九螢は自分以上に、こんな幸せな気持ちを知らなかった人だったと思い出す。あの昏い部屋に、独りぼっちだった九螢。それが今、どれだけの、どんな思いで溢れていることだろう。
 九螢の隣にしゃがみ込んで、満月は彼の頭を掻き撫でた。
 途端、地面に透明な滴が染み込んだ。二人分の、収まりきらない優しさと幸せの結晶だった。
「凄く、凄く、元気になれる。それから、とっても嬉しい。そう、この国で一番の幸せが、抱えられないほど舞い降りたくらい」
 ねずみの子を抱き締め、満月が笑った。それを合図に、人々が、手にした月の欠片を、競うように満月と九螢と玉兎に差し出し始める。
 両手では持ちきれなくて、満月は慌てて九螢と玉兎の方を見やった。
「月姫の意志は、月の意志」
 初めて月の欠片を人の手から受け取った日、口にした言葉そのままに、玉兎が言った。
「願って月姫。月を空に還そう」
 ――戻って。あるべき場所へ。
 金色の光で辺りを照らし出しながら、欠片が空に――月に向かって昇って行く。幻想的なその景色を眺めながら、満月は嘆息した。
 変わるのだ。人も世界もこれほどに。ならば、きっと、彩章だって分かってくれる。計都を、止められる。輪を、守れる。
 満月は、また少し球状に近づいた月を仰ぎ見ると、玉兎と連れ添い、小走りに石段を下り始めた。ここに来てくれた全ての人に、心からの感謝の言葉を伝えたい。
 満月と玉兎を横目で見送った九螢の隣に、遅れてやって来た帛鳴が立つ。満月の横顔を視界に捉えて、帛鳴は目元を和ませた。
「名を、取り戻せたね」
 九螢――貴方が、九つの曜を照らす螢となるように。
 満月の言葉が、九螢の胸に蘇る。
「知って……いたのか」
「あたしゃ、あんたの父さんと母さんの友人だったんだ。馬鹿みたいに何度も名の良し悪しを尋ねられて、その度に駄目だししたものさ」
 帛鳴の笑みが一瞬切ないものになる。つられて、九螢も目を伏せた。
「あの娘は――不思議だな。何も出来ない弱い生き物のようでいて、時には己の命さえも投げ出して、何かを守ろうとする」
 九螢はもう一度、満月を見据える。民に向ける満面の笑みが、こぼれんばかりだ。
「月は、宝珠を得たね」
 呟き、帛鳴は踵を返す。
「あたしの読みでは、今夜は彩章は来ないよ。玉兎も月姫も、ゆっくりと休ませておやり。勿論――あんたもね」
 瞬き、九螢は帛鳴を振り向く。けれど、遠ざかる背中が、九螢を振り返ることはなかった。


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