月姫 究竟に灯る夕星[一]



 空気は、昏く澱んでいた。辺りが薄暗いのは、何も夜が更けたからという理由などではない。ここ数カ月、国に光が差すことは、一刻としてなかった。
 主を失ってひと月も経とうかという民家の戸が、不気味な風を受けてかたことと音を立てる。その微かではあるが、異様な雰囲気に呑まれたように、淡い銀の光彩がちらちらと家屋の隅で瞬いた。潜めたような息遣いが、静謐の中に木霊する。もう暮らしている者など居ないはずの民家に、その青年は居た。
 青年は、辺りを見回しながら、横にしていた身体をゆっくりと起こした。浅くはない傷を負い、何日もろくに物も食べてはいない青年の身体はもう、そんな簡単な動作さえ出来なくなっていたはずだった。それほどまでに、青年の体はおろか、心も疲れ切っていた。
「これは……何だ」
 ろくに水分も取っていない青年の喉が、久方ぶりに声を発した。擦れた囁きは、まるで自分の声ではないようで、青年は目を見張る。
 青年の驚きは、仕方のないものだっただろう。比喩などでは決してなく、この国は陰に取り込まれてしまったはずだった。その落日の国に、雪解けの水のような清らかな閃光が走ったのだ。清水は、澱みを押し流すように国土を流れる。それはやがて、青年の意識の中にも流れ込んで来た。不思議と、心が休まる。妙な心地良さに、暫し身を委ねてしまいそうになる。
 ――これは、終わりだろうか。それとも、もう夢に見ることさえ忘れた救いだろうか。
 冷たい奔流は、青年の意識を刺激するでなく、ただそっと胸の表面を撫ぜて行った。青年の混濁した意識に、一筋の光が下りる。
 全てを諦めそうになっていたはずだった。なのに今は、出来ればもう少し、この国の行く末を見ていたいような気がする。
 しかしそれも一時のことで、青年の意識は再び、更に翳りの増した汚濁の中へとまみれていった。


 計都国曜子の到着は、蝕の影響で暗く沈みがちとなっていた月宮殿を俄かに活気づけた。夜中だというのに、宮の至る所でざわめく声がする。
 地界での説得が功を奏したのか、当の本人である京華は、初めは少々取り乱したものの、満月や晴尋が想像していたよりもずっと落ち着き払っていた。三日前、輪国に到着してから続いている協議の席でも、京華は冷静に現状と今後の身の振り方について議論を交わしていた。計都の蝕を払うまでは京華の傍を片時も離れずに居ようと心に決めていた満月であったが、これには少しばかり拍子抜けした。無論、京華のことだから無理をしている可能性も捨てきれないのだが。
「九螢の、様子が可笑しい?」
 満月が京華と晴尋と共に談笑する部屋にその報をもたらしたのは、玉兎であった。続いて入って来た赤鴉が、玉兎をきっと睨みつけて甲高い声を上げる。
「ああもう、あんたは本当に遠回しにしか物を言わないんだから!」
 真横でがみがみと言われ、すっかり困り顔になった玉兎が助けを求めるように満月を見上げた。
「何? まさかあの人、また……」
 満月は満月で悪い想像ばかりが過ぎる。満月のどこまでも後ろ向きな思考を遮るように、赤鴉が毅然と言い放った。
「違うわ。蝕化しているとか、そんな物騒なことじゃない。だけど……兎に角行ってあげなさい」
 そんな無茶苦茶なことを言われても分からない。思わず眉根を寄せると、今度は赤鴉の表情が曇った。
「世話を焼いてるあたしの気持ちも考えなさいよね! 月神にどうしてこんな気を遣ってやんなきゃいけないのかも分からないけど、あんたはあんたで何で月神に帰還の報さえ寄越さないのよ」
「晴さんと京華と帰って来た日にあちらでのことは九螢には報告したし、その後の話し合いの時にも色々話したよ。もうこれ以上報告することなんて、別に……」
 そう言って罰が悪そうに目を伏せた満月に、赤鴉が畳み掛ける。
「あの馬鹿が何言ったのかは知らないわ。だけど、貴女が折れてあげるしかないでしょ。蝕と一戦交えようっていう時に、曜神と曜子がぎくしゃくしててどうするのよ」
 図星を突かれ、満月は押し黙った。確かに、満月と九螢の関係は計都国曜子捜索の前夜からどこかぎこちないものとなっていた。あの一件以降、満月は九螢と必要以上の接触を避けることに決めたのだった。しかし流石というべきか、やはりというべきか――赤鴉にはお見通しだったらしい。
「赤鴉、そんなに思春期の女の子に辛く当たらないでください」
 晴尋が言うと、赤鴉のまなじりが吊り上がった。
「あたしだって、女の子だわ!」
「おばあちゃんの間違いじゃないの」
 ぼそりと呟いた玉兎が、案の定赤鴉から平手を喰らわせられた。目を丸くする満月とは対照的に、晴尋は涼しげな笑みを浮かべている。
 満月はあまり輪国の歴史に詳しくないが、彩章の治世は長いというから、それに寄り添ってきた赤鴉の年齢は確かに相当なものだろう。勿論、少女の姿を取っている赤鴉から、そんな気配は微塵も感じられないのだけれども。
「満月、私は適当に暇を潰しているから、月神様に会いに行ったら? 帛鳴様とかにも、まだ聞きたいこともあるし」
 輪国に到着してからずっと、満月に張りつかれていた京華が、事もなげに話を元に戻した。満月は恨めしげに京華を見やる。
 満月は本当に、九螢とどう接して良いか分からなくなってしまったのだ。否、傷つきたくないというのが大半の理由かもしれない。必要以上に関わらなければ、拒絶されることもない。だから、距離を置くことに決めた。そうでもしなければ、満月の心はたちまち悲鳴を上げて脆くなってしまう。計都国鎮定のための計画を間近に控えた今、弱ってなどいられないのだ。ただでさえ満月は、取り立てて取り柄もない女子高生の身で、しかも何事も後ろ向きに考えすぎる。何とか、気持ちだけは強く持っていたい。
 だが、曜神と曜子の関係がぎくしゃくしているのは良くないという赤鴉の言い分も分かる。玉兎も、満月と九螢を心配して来てくれたのだろう。これ以上余計な心配は掛けさせたくない。
「分かった。行ってくる」
 宣言すると、部屋に居た誰もが、満月を注視してきた。どうやら、全員に心配を掛けていたらしい。申し訳ないと思いつつ、満月は扉に手を掛けた。
「でも赤鴉。計都はまだ、完全に蝕にはなっていないし、私たちは何も戦いに行くんじゃない。私たちの目的は、計都国を鎮めること。折角、京華も来てくれたんだから」
 思い出したように満月は振り返って言うと、皆一瞬きょとんとした表情になる。だがすぐに、それぞれの反応が返って来て、満月は頬を緩めた。そのまま、部屋を出て、回廊を突っ切る。
 そうだ。こんなにも結束が強まりつつあるというのに、満月と九螢が足を引っ張るなんてことがあってはならない。曜子であるならば、月姫であるのならば、曜神と上手くやるなんて当然のことだろう。例え自身が傷つくことがあったとしても、それを乗り越えられるくらいの強さがなければ、計都を鎮めることなんて、きっと出来ない。
「九螢、居る?」
 この宮の主の寝室の扉を叩き、満月は返事を待った。知らず、満月は呼吸を止めている。緊張は沈黙が長くなるにつれ高まっていったが、いくら待っても返事はなかった。若しかしたら、帛鳴か彩章の所にでも行っているのかもしれないと満月は一瞬考えた。が、九螢が用もなく帛鳴や彩章らと談笑している姿はどうにも浮かばず、満月は首を捻った。
 ぼんやりと思考を巡らせていたら、突然扉の向こうで少し大きめな音がした。驚いて、満月は飛び上がりそうになる。恐る恐る扉を押し開いてみると、すぐ向こうに人影が認められ――しかもそれが九螢その人で、満月はもっと驚いた。
「ごめん、起こした?」
「否」
 すぐに気まずい沈黙が場を満たした。満月は脳をどの定期考査の時よりも、ひょっとすると高校受験の時よりも素早く回転させたが、上手い言葉は一つとして浮かんではこなかった。
「今、時間ある?」
「後は寝るだけだ」
 つまり、時間があるととって良いのだろうか。それとも、もう寝るから帰れという意味だろうか。迷っていると、傍に居たはずの九螢が視界から消えていた。部屋の奥に引っ込んだのかと思って、満月は開きっぱなしの寝室の入り口から、そっと中を窺った。
「入れ」
 真上で声がして、思わず顔を上げる。九螢と間近で目が合って、満月は慌てふためいた。もっとも、体自体は硬直状態となっていたので九螢には満月の混乱など分からなかっただろう。九螢は、何をしているのかと言いたげな表情で、満月を見下ろしている。
 てっきり勝手に寝てしまったのかと思っていたが、どうやらわざわざ扉を開けて待っていてくれたようだ。
「あ、ありがとう」
 無理やり押し出した言葉のままに、満月は部屋に踏み入る。高燈台の傍まで寄ると、九螢は徐に椅子に腰掛けた。満月もそれに倣って、向かいの椅子に腰を落ち着ける。
 以前より、この部屋も随分と明るくなった。高燈台や松明の火と、月本来の明るさで、正殿は丁度良いくらいの明るさを保っていた。それだけに、お互いの表情が丸きり分かってしまう。満月はどうにか平静を装おうと画策したが、どうしても動揺が顔に出てしまって、それはあまり意味を持たなかった。
「あの、ええと、ただいま」
「ああ」
 素っ気なく言う九螢は、いつもと変わりない。だが、あの一件を引きずっている満月の瞳には、どうしても冷淡なものに映ってしまう。
「無理をさせた」
 思いがけない言葉に、満月の瞳は自然と九螢を見上げた。炎に照らされた九螢の瞳は、満月から少しだけ目線をずらしている。
「何で? 私より、九螢の方が負担は大きいでしょ。あの時は、無理言ってごめんなさい。でも、京華を助けてくれてありがとう」
「あれは、お前の友人だったのだろう」
 まさか、九螢がそんなことを気にするとは思っていなかったので、満月は一瞬言葉を失った。
「それは、私の問題だから。九螢は、気にしないで」
「何故」
 瞳がかち合う。九螢の目は、満月を弾劾するような鋭さを持っていた。
「お前だって、俺の問題に首を突っ込んで来た」
「それは――私が月の曜子だから」
 満月は、自然と言い訳がましい口調になる。
「なら俺が、月の曜神として曜子を気にかけることは可笑しいか」
「お、可笑しくないけど」
 正論を返され、満月は狼狽えるしかない。
「なら、もっと俺を頼れ」
「……は?」
 開いた口が塞がらないとは正にこのことだ。満月は九螢の言葉の意味をよくよく噛み砕いてみた。けれども普段の彼の様子からあまりに逸脱した言は、その意味を考えれば考えるほど満月の頭を混乱させるばかりだった。
「日御子や彩章にばかりかまけているなと言っている」
 尚も満月は九螢をまじまじと見つめ、その言葉の意味を咀嚼した。数秒後、満月の真顔が歪んで崩れる。口元を覆ってみたものの、一度噴き出してしまうともう、止まらなかった。
「何だ。あの時のあれ、拗ねてただけなんだ」
 涙まで浮かべながら尋ねる満月に、九螢は不快そうに視線を向けた。
「拗ね――」
「晴さんや日神様と話したいなら、そう言えば良いのに。九螢も、皆と話したかったんでしょう? 違うの?」
「ち――もう良い」
 吐き捨てるように九螢は言って、勢い良く立ち上がった。九螢の座っていた椅子が、大きな音を立てて、倒れる。それを直しながら、満月はそれまでの楽しそうな笑みを引っ込めて、安堵の表情を浮かべた。
「でも……良かった。あの時、九螢に嫌われたかと思って、ちょっと怖かったから」
 囁くように言った言葉は、どうやら九螢の耳にまで届いたようだった。訝しげに九螢が振り向いたのが、目をやらずとも感じられた。
 先刻まであんなに悩んでいたのが、嘘のようだ。使命感から、九螢との関係をどうにか復旧しようと躍起になっていたはずだったのに、こうして気楽に言葉を交わせることが、ただ嬉しいと感じる。
「欠片も、あとちょっとで完全に戻るんだよね」
 先刻開かれた協議で、玉兎があと二割と漏らしていたのを思い出し、満月は呟いた。
 京華も計都曜子として輪の地を踏んだ。確実に輪国側に駒が揃いつつある。後は、計都に乗り込むだけだ。ただ、肝心の計都国の内部が不透明で、どれだけの危険を内包しているのかが未だに見えてこない。あちらがもし攻撃を仕掛けてこようとも、こちらは下手に動くことは出来ない。万が一にも計都が斃れるようなことがあってはならないのだ。不利な交渉となることは目に見えている。
 帛鳴も、北西の地を覆う陰が、一層色濃いものとなったと憂えていた。彩章が眉根を寄せたのは、急激な変化を訝ってのことだろう。
「しかし、それは期待出来そうにないな」
 この短期間で国中に散った月の欠片をこれほどまでに回収することが出来たのは、狐鈴ら楽阜の民に始まる返還運動があったからに他ならない。だが、それも全てとなると、難しいのは目に見えて明らかだった。ましてや、計都国潜入前に、ともなれば不可能という文字がちらついた。満月もそれを知った上で、きっと大丈夫などと無責任に九螢を励ますことは出来なかった。
「万全とは言えないけど、こっちには沢山の人が居る。私も九螢を支えられるように頑張るから」
 言って、満月はその言葉の頼りなさに苦笑した。けれど、心意気だけは真実堅固にある。
「その細腕でか?」
 揶揄するような響きに、満月はむっとしつつも、眉尻を下げた。悲しいかな、九螢の言う通りで、満月には心意気に実力が伴っていない。
「頼もしいな」
 軽口を叩いたのかと思い、満月が憤怒の形相で九螢を見上げれば、そこには柔らかい、笑みともつかない表情が刻まれていた。真意を量りかねて、満月は自然と険しい面構えになる。
「明日も早い。早く寝ろ」
「ん、おやすみなさい」
 吐息のように満月はそうこぼして、九螢の元を去った。
 松明の炎を受けて回廊に伸びた自身の影を見つめながら、満月は胸に薄くせり上がった思いに鼻白んだ。思いのままに振り返れば、九螢の寝室がそこにある。あまり良い思い出のない部屋なのに、どうしてかもう少しだけそこに留まっていたいような、そんな気がしていた。


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