月姫 究竟に灯る夕星[二]



 翌朝、穏やかな眠りに包まれていた月宮殿を揺るがす異変が起こった。遥か北西の地で生じ、輪国まで流れ着いた禍の数々が、輪国全土を混乱の渦に陥れたのだ。日月の素早い対応により民に死者を産むことは免れたが、これにより多くの負傷者を出したことは言うまでもない。
 帛鳴と彩章によれば、計都の蝕への移行が見通しよりも大分早いのだという。羅睺の際は、異常だと気づかれない程度に、ゆるやかに輪国における禍の頻度と影響力が高まっていった。しかし、今度の計都による禍はそうではなかった。あまりにも急激に禍の力が増している。これには、九螢も彩章も即断を余儀なくされた。
 月の欠片の返還を待つという名目で、数日後に予定されていた計都国への出発は、止むなく即刻決行となった。輪国で曜神の不在を埋める役は、帛鳴を指揮官に、日の精と月の精に託された。もっともこれは緊急の措置で、本来ならば九螢と彩章により守護の呪が輪国一帯に張り巡らされるはずだった。
 禍を退け、息吐く間もなく輪国を飛び出してきた形となった一行であったが、疲弊や動揺の色をおくびにも出すことはなかった。正しくは、そのような余裕がなかったと言った方が適切かもしれない。
「……酷い邪気」
 高空に吹く凛冽とした風にも増して身体を消耗させるのは、計都国が吐き出していると思しき邪気だった。それさえなければ、翼を広げた玉兎に跨って星の海を渡る旅は、ずっと神秘的で浪漫をかき立てるものとなったことだろう。
 九曜国では、国と国の間に黒々とした大海が横たわっている。その常闇のごとき虚空に、まばゆいばかりの糠星が所狭しと散っているのだ。
「京華、大丈夫?」
 顔面蒼白な京華は、色白だからという言葉だけでは片づけられない。思わず声をかけた満月だったが、返って来たのは口角を僅かに吊り上げた微笑だけだった。
 京華の容態は、計都国に近づくにつれ、酷いものとなってきていた。出発前に帛鳴が薬草を煎じてつくり、持たせてくれた薬は、初めは効いていたようだが、ここまで来ると意味を持たないようだった。見かねた九螢と彩章が代わる代わる京華から痛みを取り払っていたが、治しても治してもその症状は酷くなるばかりだった。仕舞には、これ以上は力の浪費だと言って、京華から治癒を断ってしまった。
「計都の曜子が倒れては、元も子もない」
 九螢が手をかざすと、京華は力なくごめんなさいと呟いた。曜神の蝕化とは、こんなにも曜子を蝕むものなのかと満月は慄然とする。ならば計都の曜命は無事なのだろうかと、ふと思った。
「見えた!」
 玉兎から少し離れた所を飛翔していた赤鴉が叫んだ。
 見れば、下方に大地が広がっている。しかしそれは辛うじて目視することが出来るという程度で、黒い霧のようなものに覆われていてその全貌は殆ど見えなかった。
「あれが、計都国」
 覚えず満月は息を呑んだ。
 それは、輪国の景観とは随分と異なると思わずにはいられなかった。玉兎に跨り小さくなりゆく輪国の大地を顧みた時、そこには青々と茂る緑の大地が広がっていた。
 だが、目前の計都国には、乾いた褐色があるのみだ。それは決して、霧に覆われているというだけの理由ではないだろう。
「以前より、禍々しさが増していますね」
 言った晴尋に、赤鴉が短く肯定を返した。やはり、僅かな時の間に蝕化は相当進行しているらしい。
「あの国の民は、どうしているのだろうな」
 こぼれ落ちた九螢の言葉に、誰もが押し黙った。
「必ず救おう。計都の動きを封じ、去るようでは私たちは侵略者と変わらぬ」
 噛み締めるように彩章が言うと、二翼が降下を始めた。粒のようだった家々が段々と形を成していく。計画では、このまま計都宮まで飛んで行く手筈となっていた。
 遠方に、計都と見られる曜の姿を捉えた。玉兎と赤鴉が俄然速度を上げる。しかし、それは突然阻まれた。
「うわ!」
 声を上げて、玉兎が翻った。落下しかけた満月と京華を、玉兎にしがみついた九螢が何とか掴み上げる。満月は、生きた心地がしなかった。
 一度は均衡を崩した玉兎であったが、すぐにその羽ばたきに規律が戻った。
「どうした!」
 声を荒げた九螢に、困惑気味の玉兎の声が返る。
「分かりません。何か障壁のようなものに阻まれてしまったみたいです。月姫、計都姫、大丈夫?」
「うん」
「ええ」
 あまり大丈夫と言える状況ではなかったが、京華とそう口を揃えた。見ると、晴尋と彩章を乗せた赤鴉もすぐ傍で立ち往生していた。
「守護の呪、か?」
 低く唸るように彩章が呟いた。
「今の計都に、それだけのことが出来る余裕と頭があるとは思えないがな」
 九螢は言って、つと腕を前方に向けた。ばち、と暗い閃光が走り、見えない壁は九螢の指先を弾く。同じように彩章が手を伸ばせば、一瞬強い力で内部へと引き込まれそうになり、けれどやはりそれも外へと弾き飛ばされた。考え込んだ彩章が、思いついたように橙に煌めく炎を前方に放ったが、それも同じく、弾き返されただけに過ぎなかった。
「守護の呪は、人を傷つけるものではない」
 跳ね返ってきた炎に焦がされた毛髪の先を見つめ、彩章が唇を歪めた。九螢の指先にも、小さな掠り傷が走っている。
 傷ついた指先を拳の中に押し込め、九螢は彩章を向いた。
「守護の呪が変質した何らかの術か、或いは――」
「計都が私たちを拒絶している、か」
 彩章が合図をすると、赤鴉は垂直に下降し始めた。首をもたげた玉兎に、九螢が頷いて赤鴉に続くよう促す。
 迂回路を取れば、それだけ時間も掛かり、危険性も増す。けれども、曜から離れれば離れるだけ、曜の影響力も弱まる。曜の宮は中天に浮かんでいるのだから、空路を取るより陸路を取る方が得策といえるだろう。
 地上に近づくにつれ、黒い霧の纏わりつくようであった重さが軽くなってゆく。やはり、選択は間違っていなかったようだ。しかし、それは束の間の安堵に過ぎなかった。
 玉兎の背中から滑り降りて、満月は異様な光景に立ち尽くした。
「人が――」
 そこは、民家が建ち並ぶ小さな通りだった。輪国のそれと大差ないごく平凡な民家の群れ。ならば、そこには当然のように平凡な生活の風景があるはずだった。
 だが、どんなに目を凝らしても、家族のために料理をする温かな匂いも、子供たちが砂埃を巻き上げて駆け回る姿も、人々の楽しげな笑い声も見つけることが出来なかった。
 普段ならばそこにあったはずのありふれた光景が、その町にはなかった。それどころか、町には、一欠けらの生気も漂ってはいない。町は不気味な静寂に覆われていた。
 本能が、満月に警鐘を鳴らしている。それ以上は踏み込んではならないという呪縛が、満月の心も身体も絡め取る。
 無人の町はがらんとしていて広々としているのに、舐めるような圧迫感が四方から満月たちを囲んでいた。人の気配はないから、それは多分杞憂に過ぎない。だのに、下手に動けば取って食われそうな緊迫した空気のせいで、呼吸の仕方さえ忘れそうだった。
 そんな満月の傍らで、九螢も玉兎も踏査のために動き出していた。満月はその姿に励まされ、くっと顎を引き上げ歩き出した。
 手近な民家の壁に触れた時、まず最初に嗅覚に痛烈な刺激が過ぎった。満月はそのまま、窓から家屋の内部に目を凝らす。灯りがないので、家の中は薄暗くいまいち物の輪郭が捉えづらい。曜の加護を失った計都の大地では、昼間でも灯りが必須であった。
 次第に目が慣れてきて見えた光景に、満月はひっと喉の奥で悲鳴を上げた。声を発することに躊躇した訳ではない。声が出なかったのだ。
 そのまま地面に崩れ落ちた満月の元に、複数の足音が急き立てられたように駆け寄ってくる。
「どうした!」
 九螢と玉兎に腕を引き上げられたが、満月は腰が抜けて立つことが出来ない。訝しんだ九螢が窓を覗けば、彼の瞳は暗闇に目を凝らすように細められ、すぐに見開かれた。
 質素な上に酷く狭い民家には、必要最低限の家具しか置かれていなかった。薄闇の中に何かしらの影を探せば、やがて人の形を取っている影の存在に気づく。家屋の中心で横たわっているのは、この家の主に違いなかった。
 主は動かない。それは、安らかな寝息を立ててなどいない。彼は、眠っているのだ。永遠に。
 腐った主の身体を食むうじの白さが、薄汚れた身体の上で引き立っていた。耳を澄ませれば、うじの蠢くその音さえ聞こえてきてしまいそうだ。
「死んでいるな」
 その一言に、満月の身体がびくんと跳ねた。計都国に来るのに、こういう事態を想定していなかった訳ではない。十分に有り得ることだと覚悟して来たつもりだった。けれど、実際に惨状を見て、平然としていられるはずがなかった。
「ざっと見ただけですが、三割程度が死体として確認出来ました。残りの住民の行方は不明です」
 背後から聞こえたのは、晴尋の声だった。事務的な態度に徹しているものの、その声は死者を悼み、そして動揺を隠せずに揺れている。
 経験の差こそあれ、晴尋とて現代日本の若者に過ぎない。否、九螢や彩章という曜神の身であっても、皆、満月と同様に様々な思いに駆られているに違いなかった。
 だから、満月一人が騒ぎ、嘆いていてはいられない。今回は、自分のことだけでなく、満月は京華をも守らなくてはならないのだから。
 未だに青ざめたままの京華は、制服の袖を握り締め、必死に立っていた。
 あれが、見知らぬ異国に連れて来られたばかりの満月であったらどうだっただろう。こんな所なんて知らないと、逃げ出してしまうのが目に見えた。
 京華の傍に寄り添い、満月は感覚を最大限に研ぎ澄ました。先刻から、不吉な予感が満月の額に汗を浮かび上がらせていた。
 小路の先を睨むように見つめ、満月はふと過ぎった違和感に全身を硬くした。
 違和感の正体を掴もうと、満月は再び意識を集中させる。そこに、刃のように尖った気配が突然混ざり込んだ。
「殺気――!」
 けたたましい警鐘の音が満月の身体の中で鳴り響いた。満月の声に呼応して、九螢は抜刀する。
 突如、何もなかったはずの宙に、銀色の輝きが閃いた。それが人影であると気づくのに、大して時間は掛からなかった。
 銀色の人影が振り下ろした刃を、九螢の刀が受け止める。激しい拮抗の末、銀の人影は襲い掛かってきた彩章の炎から逃れるように後方に飛び退った。
 軽快な音を立てて、人影は民家の屋根に着地する。まるで重さを感じさせない動きは、手慣れているという印象を満月に植え付けた。すっくと立ったその姿はどこか性を感じさせず、男か女かすぐには判断がつかなかった。高い位置で一つに結い上げられた白銀に輝く髪と、淡い蒼の瞳が薄暗闇の中でぼんやりとした光彩を放っていた。
「誰だ」
 刀を構え、九螢は一歩進み出る。銀の人影は屋根から飛び降りると、太刀を真っ直ぐに九螢に向けた。
「そこを、退け」
 声を聞いてやっと、それが男であると分かった。
 怯む様子は微塵も見せず、男はこちらに向かってくる。男の瞳は九螢を映してなどいなかった。男の視線は九螢の肩越しに満月を捉える。一瞬戦慄した満月であったが、すぐにそれも違うと気づいた。男の冷えた瞳は、満月の背後に注がれていた。震えた吐息が、満月のすぐ後ろで上がる。狙いは、九螢でも満月でもない。京華だ。
 満月は、京華を庇ってじりと後退った。目の前には九螢と彩章が立ちはだかっているが、安心は出来ない。
 ふと、満月の視界に呆然と立ち尽くした玉兎の姿が目に入った。
「……曜命、だ」
 囁くように言った玉兎の言葉の意味が分からず、満月は思わず彼を向いた。
「あの男、民間人じゃない――計都の曜命よ」
 辛うじて絞り出したような赤鴉の声が、満月に突き刺さる。
「じゃあ何で、京華を狙うの!」
 斬り合う九螢と男を見つめ、満月は甲走った叫声を上げた。
 確かに人間の形を取る者は、輪国には日月にまつわる者しか存在しない。民は皆、動物の形を取っている。しかし、計都国には若しかしたら人間の形を取る民も居るかもしれないではないか。
 満月の主張を遮るように、玉兎は力なく首を振った。
「月姫が他の曜子を見分けられるように、僕たちも曜命を見つけることが出来る。あれは間違いなく、計都の曜命だよ」
「じゃあ、曜命さえもが蝕に囚われてしまったの」
 呆然と、満月は呟いた。何が起こるか分からないとは思っていたが、まさか曜命が同じ曜の曜子を狙うだなんて思いたくなかった。この状況は、京華には相当酷だろう。
 突然、斬り合う九螢と曜命の方から、高い笛の音が鳴り響いた。見れば、計都の曜命が指笛を吹いている。反射的に、満月は京華を更に後方に押しやった。
「何?」
 空気の質が、明らかに変化した。禍々しい邪気が、辺りに蔓延する。
 続いて、ざわりと風が騒いだ。地の底から響いたような、どくんという胎動が鳴り渡る。無人であったはずの町は、まるで胎児を出産するかのように、蠢動する無数の人影を一瞬にして生み出していた。
「これは――」
 狼狽えた晴尋の声が上がった。満月も、唖然とその場に立ち尽くすしかない。
 満月たち一行は、瞬く間に何百という人々の群れに包囲されていた。
「目に生気がない。心を喰われたか!」
 彩章が炎で威嚇するが、人々は誰一人としてそれから逃れようとはしない。一つの生き物となったかのように、その動きは統率が取れていた。皆それぞれの武器を手に、じりじりと迫って来る。
「退け! 不利だ」
 尚も計都の曜命と剣戟を続ける九螢がそう声を上げたが、退くも何も、こちらは取り囲まれて身動きが取れない。彩章や九螢が本気で力を使えば、特別な力など何も持たぬ民など簡単に蹴散らすことは出来るが、それは出来ない。民は、計都は敵ではないのだ。
「やだ、放して!」
 すぐ傍で上がった京華の悲鳴に、満月は凍りついた。見れば、京華の腕は一行を取り囲んでいる男の一人に囚われていた。
「京華!」
 輪の外へと連れ出されそうになっている京華に、満月は必死でしがみつく。幾人もの人々の手が足が二人を引き剥がそうと伸びてきたが、満月は京華の腕を離さなかった。
「月姫!」
 悲鳴から一拍遅れて、玉兎の腕が伸びて来る。けれども玉兎の腕は、満月に触れる前に虚しく空を切った。
 人々の波に揉みくたにされながら、満月は京華と共に人々の網を抜け出した。
 途端に、一行を包囲していた人々が、円の中心へと雪崩れ込む。九螢たちの姿は、すぐに人々の群れの中に掻き消えて見えなくなった。
「玉兎――九螢! 皆!」
 叫んだ直後、聞きたかった声が聞こえた。
「逃げろ!」
 切羽詰まった怒声は、人々の壁を隔ててもなお、鋭く満月の耳朶を打った。しかし、九螢の言葉の意味が、満月には理解出来ない。窮地に陥っているのはむしろ九螢たちであって、満月と京華は安全な場所に居る。それを逃げろとはどういうことか。
 そう思った矢先、京華の声にならない悲鳴が聞こえて、満月はさっと身を引いた。すれすれの所を、ひんやりとした風が通り過ぎる。それが骨をも砕く刃であると一瞬を置いて認識した。
「――!」
 吐き出した呼吸が神経質に震えた。視線を上げると、蒼の瞳とかち合った。脅える満月と京華のことなど一顧だにしない様子で、計都の曜命は無表情に再び太刀を構える。
 日月の守護する所から京華を引きずり出すことが計都の曜命の狙いだったのだと、満月はその瞬間に理解した。
 満月は護身用に持っていた短刀を、曜命に向かって投げつけた。掠りもしなかったが、狙い通り、軽い時間稼ぎにはなったらしい。
 次の瞬間、満月と京華は脱兎のごとく、その場から逃げ出していた。


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