月姫 究竟に灯る夕星[六]



 それから暫くして、彩章らが追いつくと満月たちは行進を再開した。
 目指すは計都宮の最奥、曜神の間である。
 計都の民たちは、依然心を囚われていたが、意識を取り戻しつつある者も少数ながら存在した。その者たちは皆、満月ら――特に京華と彗鷺に縋り、助けを求めた。
 それに力強く頷き返しながら、ただひたすらに歩き続ける。時折手練れの刺客が襲ってきては肝を冷やしたが、日月に計都の曜命と曜子を加えた一行がそれに屈することはなかった。
「壊されてる!」
 計都宮の真下の祠でそう悲鳴のような声を上げたのは、満月だった。曜を祀る祠は、滅茶苦茶に傷つけられ、崩れ去っていた。
 曜の宮に昇るには曜命の翼に頼るか、祠を通じて入り込むしかない。今回は曜命を封じられているから、後者の策を取るつもりだった。が、それも封じられてしまったとなっては、もう策がない。
「どうする」
 彩章が険しい顔で、九螢に打開策を求める。が、九螢も渋面をつくって頭上の曜を妬ましい思いで睨み上げるにとどまった。
「これだけの短い距離ならば――あるいは……」
 そう呟いたのは彗鷺で、京華がその言葉に瞬時に顔を閃かせた。
「何か方法があるの?」
「あまり長い距離には耐えられませんが、ここから計都宮まではそう距離もない。お連れ申し上げることも可能かもしれません」
 それにいち早く反応を示したのは同じ曜命である赤鴉だった。
「新入りのくせに良いところ持ってってんじゃないわよ。あたしだってこれくらいへっちゃらなんだからね!」
 困ったように、彗鷺は柳眉を下げる。
「すみません、そんな気はなかったのですが」
「赤鴉、つまらないことに意地を張るな」
 苦笑して彩章が言うと、赤鴉はつんとそっぽを向いた。
 つまりは、負荷は掛かるが、曜命の力でここから計都宮に行くことは不可能ではないということらしい。満月は縋る思いで、玉兎を振り向いた。
 けれども、そんな期待も虚しく、玉兎の表情は曇っていた。
「確かに行けないことはないと思うんだ。でも、凄い力が掛かるから、もし無事宮中へ辿り着いたとしても、その後足手纏いになっちゃうかもしれない」
 不安げに呟いた玉兎に、九螢が不遜な笑みを返す。
「たかだか二、三人足手纏いが増えたくらいで、俺がお前たちを守り通せないとでも?」
 その言い様に溜息を吐きつつ、満月は玉兎に微笑を向けた。
「こうまで言ってるんだから、後のことは気にしないで。玉兎たちに負担をかけちゃうのは本当に申し訳ないけど、飛べるのなら飛んで欲しい」
 言うと、玉兎は力強く頷いた。
 三対の翼が広がる。満月と九螢は玉兎に、晴尋と彩章は赤鴉に、京華は彗鷺にそれぞれ跨り、激しい抵抗を受けながら浮上した。いつもの、飛んでいることを感じさせない滑らかな飛翔とはまるで異なる。水平とは言い難い、傾ぎ揺れる飛び方は、ともすれば騎乗者を振り落としてしまいそうだ。
 鎌鼬に切られるように、何もないのに玉兎の身体が傷つき、血が噴き出す。曜命たちの苦しげな呻き声が漏れる。圧を受け、落下しかけることもしばしばあった。すれすれの所で立て直すが、何度もそれを繰り返したせいで、三翼の呼吸は既に乱れ切っていた。
 負担をかけるどころではなかった。このままでは、いくら曜命とはいえ、命の危険がある。
「あと少しだ。耐えてくれ」
 治癒を施し、簡易の守護の呪で玉兎らを庇いながら九螢が言う。
 烈風のせいで目を開けていられなかったが、どす黒く染まった曜がもう目前にあるということだけは、否応なしに感じ取れた。
 満月は、掻き寄せるようにその曜に向かって思い切り手を伸ばした。触れた瞬間、指先が飲み込まれる。生気をも自我をも貪り尽くされるような悪寒が、全身を駆け巡る。次の瞬間、満月は計都宮の一角に放り出されて激しく腰を打った。

 痛みに堪えながら、身を起こす。慌てて全員の無事を確認すると、満月はやっと一息吐いた。だが、その安堵を噛み締めている暇もなかった。
「黒髪の女だ! 女を殺せ!」
 複数の足音が、不穏な言葉を吐きながら駆けつけて来る。
 騒ぎを聞きつけたのか、守衛と見られる民や計都の精が既に集まり始めていた。彼らは皆、碧洛の街で見た人々の農具を中心とした付け焼刃の武装とは、まるで格の違う武装に身を包んでいる。
「彗鷺、ここはどこだ」
 辺りを見回しながら、九螢が息も絶え絶えな彗鷺に尋ねた。
「……正殿の南の――中庭です」
「案内役は計都姫に任せれば良かろう。一気に突っ切るぞ」
 彩章は九螢に向かってそう言うなり、計都の精に火の玉を放った。民と違い、曜の精が死ぬことはない。
 彩章に名指しされた京華が、毅然とした面持ちで守衛たちが守るその先の主殿を指差す。
「あっちです。あの人の気配がする」
 京華が示した方向から、並々ならぬ陰の気配が漂ってきている。それは、胸騒ぎを起こさせるような決定的な終焉を予感させた。
 その終わりへの道に吸い寄せられるようにして、一行は急ぎ歩を進めた。
 先頭を行くのはやはり九螢で、後方を彩章が守った。守衛たちは皆、各々の武器を取って襲いかかって来たが、九螢がその矛先を己より後ろに向かわせることを良しとしなかった。その徹底された守りをもかいくぐった攻撃は、晴尋と彩章がねじ伏せる。奥に進むにつれ、守衛の腕が上がって行くのはど素人の満月にも分かったが、それでも一人も大きな怪我は負うことなく最後の砦まで辿り着いた。
 最奥の間は、何百という人々の壁によって、硬く閉ざされていた。
 そこにあるのは、熱気などという生気が宿ったものとは全く異なる、陰に取り巻かれた異様な雰囲気だけだった。目という目は空ろに京華を見据え、口からはただ呪詛のような言葉が漏れ出るのみだ。
 その向こうから、紛う方なき蝕の気配がする。息苦しさも限界に達し、満月は荒い呼吸と咳を繰り返した。そのすぐ横で、突入時に掛かった負荷により弱っていた三人の曜命は、耐え切れず次々に片膝をついた。
「気をつけろ。計都が何か、力を使った」
 九螢の硬い声と共に、満月も唐突に訪れたその強い力を肌で感じた。だが、何かが起こる様子はない。
 訝しみながらも、満月は荒い息を繰り返す玉兎の背中を、二度、三度と撫でてやる。その呼吸が収まるのを待たずして、満月は何か嫌な気配を感じてはっと顔を上げた。
 慎重に、守衛の一人一人に視線を走らせる。どの顔もやはり、京華を見つめていた。この人でもない、あの人でもないと見回していると、奥まった所まできて、弾かれたような衝撃が満月を襲った。
 名も知らない民のがらんどうの瞳が、満月を見ていた。
 ――ただそれだけのことだった。
 しかしそれを意識した途端、あまりにも不自然に訪れた寒気に身体が強張り、歯の根が合わずに奥歯ががちがちと音を立て始めた。
 民のその目は、虚無という言葉がこれ以上ないほどに似合っていた。満月がどんなに目を凝らしても、殺意や憎悪はおろか、一切の感情を読み取ることが出来ない。
 だというのに、どうしてこれほどに恐ろしいのだろう。
 瞼の裏に、蝕となった計都神を前にして、為す術なく皆が倒れ伏していく様が鮮明に浮かんできた。
 玉兎が血塗れになって倒れ、京華は刃に貫かれてぴくりとも動かない。その肢体に折り重なるようにして倒れているのは彗鷺だ。彼の口から漏れる、ひゅうひゅうというか細い息の根は今にも止まろうとしている。そして、九螢もまた、弄ばれるようにして無残に切り刻まれ、満月の呼び声も虚しく、崩れ落ちゆこうとしている――。
「ああ、あ……」
 小刻みに震える指で、満月は顔を覆った。膝が笑ってしまって、足に力が入らない。
 ――無理だ。敵うはずがない。
 固かったはずの意志に反して、そんな声が己の内奥から響いてくる。
 また一段と、満月たちを包んでいた闇が濃くなった。
 その闇は、満月からあらゆるものを奪っていく。気力も体力も生気も――やがては、皆の命をも奪ってしまう。
 死んで、しまう。玉兎も京華も彩章も、九螢さえも……!
 呼吸が乱れ、意識が遠くなっていく。このまま、魂さえも吸い取られてしまうのかもしれない。今、意識を手放すのは危険だと分かっているのに、どうすることもできない。どうしたいとさえ、思わない。
 満月の上体が、ゆらりと傾ぐ。と、どうにか薄く開かれていた瞳が、一人の人影を捉えた。
 その刹那、満月は猛烈に後悔した。
 ――さっき、何を思った?
 あれだけ偉そうに蝕となる決意をした彼に説教をしておきながら、自分は簡単に死を選ぶのか。どうなっても構わないと、全てを投げるのか。
 己への苛烈なほどの怒りに、目の前が真っ赤に燃え上がる。
 その衝動で、閉じかけていた目が、かっと見開かれた。
 消えてしまったはずの思いの奔流が、再び嵐のように満月の中をめちゃくちゃに駆け巡った。自分はまだ、諦められない。否、そうではない。何を諦める必要がある?
 ぐっと大地を両の足の裏で踏みしめる。
 しかし、未だに内に燻っていた陰が、満月の意識を引きずり落とそうと最後の抵抗を開始した。吐き気と息苦しさと、追い払ったかに見えた絶望感が再びその手を伸ばしてきた。
 まるで、陰でできた鎖が、満月をがんじがらめにして離すまいとしているようだった。
 その戒めは、もがけばもがくほど更にきつく満月を縛る。
 ――嫌だ。死にたくない。
 そんな思いも虚しく、足の感覚が、ついにはぷつりと切れた。平衡を崩したのに気付きながら、どうすることもできない。
 ――九螢、
 沈みゆく意識の中、満月は虚空に手を伸ばした。縋るように、求めるように、指先で空を掻いた。
 暗闇が、視界に幕を下ろす。底なしの闇に落ちて行くような、途方もない恐怖に飲み込まれていく。
 そこに突如、眩しいほどの光が射した。霧が晴れるように、闇が散っていく。
 瞼を押し上げれば、伸ばした満月の手をぐいと引き上げる力強い手のひらがあった。
 その感触を、満月が間違えるはずがない。一瞬驚きに染まった瞳は、安堵を滲ませた柔らかいそれへとすぐに変わった。
 一時は闇の中に飲み込まれてしまったかに見えた思いが、満月の心に強固になった意志として急激に収束していく。
「呑まれるな」
 頭の上から、九螢の声がした。
「蝕は心を喰らい、それを糧とする。計都神が何か事を起こしたようだとは思ったが、まさか標的がお前だとはな」
 九螢はすぐさま繋がれていた手を離したかと思うと、今度は満月の背中に腕を回した。気のせいか、その腕は小刻みに震えていた。
 しかし、それに疑問を感じていられないほど強く、九螢に比べればひどく華奢な肩や背中が悲鳴を上げるまでに掻き抱かれる。耳朶にかかる吐息が、熱い。急流のように、ほとばしる熱が満月の身体の隅々までを行き渡っていく。
「死にそうになって、何故俺を呼ばない!」
 責めるような響きに、満月は言葉を詰まらせた。九螢がこのように激昂することがかつてあっただろうか。
「だって、」
 怯みながらも、満月は九螢に反抗した。
 一度でも、皆の力を疑い、全てを放り出そうとしてしまったのだ。それなのに、都合良く自分の窮地に九螢を呼ぶのは、虫が良すぎる気がした。といっても、咄嗟に心の中でその名を呼んでしまったので、そんなことは言い訳にならないのだが。
「頼れと言ったろう。一人で抱え込むなと言ったのはお前だ。お前の恐怖も、お前の苦しみも、俺にも預けろ」
 頤を持ち上げられ、上向かせられる。
 戸惑ったように九螢を見上げれば、真っ直ぐな瞳がそこにはあった。
「きゅ、け……」
 掠れた声で名を呼んだ満月に、九螢はふっと相好を崩した。
「俺もあいつらも、こんなところで死ぬような玉ではないだろう」
 揶揄するような響きに、満月は場違いにも口元がほころぶのを感じずにはいられなかった。確かに、自分はともかく、九螢の言うとおり、皆殺しても死ななそうな人物ばかりだ。先程、あんなに恐れたことが、馬鹿みたいに思われてきた。
「勿論お前もだ、月姫」
 九螢から聞くのはあまりにも久々である呼称に、満月は目を見開いた。
「だが」
 そう言って九螢は、満月の頭をくしゃりと撫でた。
「お前は相当肝も根性も据わっているが、あいつらも俺も含めて、一人ではどうにもならない時があるだろう。そういう時はちゃんと、俺を呼べ。手を伸ばせ。必ず、掴んでやるから」
 真摯な言葉は、満月の心の奥底にまで沁み入った。
 これまで、自分一人で立たなくてはと、満月はいつも必死だった。曜神や曜命などという理解不能の強大な力を持った者たちに囲まれ、女子高生の身でしかない己を、どうにかしてそれに見合うよう――せめて足手纏いにはならぬよう、満月は努力を重ねてきた。無知も、思慮の足りなさも、無力さも悔いるばかりで、今では少しは成長し自分の足で歩けるようにはなったが、根底にある脆さや弱さはどうにもならなかった。
 だが、九螢はそれでも良いと言う。そんな自分の手を、取ってくれると言う。現にさっき、九螢は救いを求めて伸ばした満月の手を取ってくれた。
「分かっ、た……ありがとう」
 九螢は満月が落ち着いたのを見て取ると、彩章が先陣を切る前方へと足早に離れて行った。守衛たちの防壁を切り崩すためだ。
 九螢の放った月の光が、守衛たちの手から武器を振り落とす。頭上に降り注がれた矢が、月光の守りに弾かれる。九螢の瞳は、前だけを見つめていた。
 不安が全てなくなった訳ではなかったが、満月もまた、ただ前を見つめた。
 不安も迷いも霧散させるほどの意志が蘇って、一層強く煌めき始めた。


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