月姫 逃げ水の呼び声[一]



 計都神の指揮で、計都国の禍掃討作戦が決行されてから半月が経った。まだ十分とは言えないものの、大規模な禍は九螢や彩章、そして計都神の働きによってあらかたが退けられ、復興に向けた支援・事情説明も満月たち曜子曜命の尽力によって大部分に行き渡りつつある。
 計都神への理解はまだまだ得られそうになかったが、九螢や彩章もいつまでも他国に居着いているわけにもいかないという理由から、話し合いの結果明日に帰国を決めた。
 心残りがないと言えば嘘になるが、満月たちも輪国の重要な要であるが故にあまり自由には振る舞えない。帛鳴や環らに託してきたとはいえ、曜神なしに国が回るほど輪国はまだ安定してはいないのだ。
「満月」
 久々に会った京華は、白い肌が日に焼けて痛々しく赤く炎症を起こしていた。彗鷺に跨って、何日もの間、朝から晩まで計都国中を巡った証拠だろう。
「凄い顔よ。一緒にお風呂でも行かない?」
 そう言って、京華は満月に寝具を投げて寄越した。満月はそれを片手で掴むと、もう片方の手で自らの頬に手を添える。
「そんなに凄い顔してる?」
「ええ。土埃とか汗とか。今夜は折角宴があるんだから、満月も少しは綺麗にしていきなさいよ」
 自覚のなかった満月はしおしおと萎れる。それは年頃の娘としてどうなのだろう、と今更ながら我が身を振り返って自らを罵った。
「宴なんて良いって、九螢も日神様も言ったのに……」
 まだ問題が山積している計都国に、そのような気を遣わせる訳にはいかないと日月の誰もが口を揃えたにも関わらず、計都神は強引にその計画を通してみせた。
「曜同士の干渉は天の理に反する……それが、覆ったのかもしれないんだもの。今後のことを考えても、友好関係を築いておくのは両者に益があると思うわ。私たちの国も立て直すことができたら、今後貴方たちを助けることができるかもしれないし」
 その可能性については、満月を始め、日月の誰もが考えていたことだった。曜神の力に頼り切った九曜国の体制は、ろくに国や世界という枠組みを考えたことのなかった女子高生の身である満月の目にも、危うく見える。
 強大な力を持つ者同士、必要以上の干渉は新たな問題を生むかもしれないが、節度を保った外交関係が築けたならば、これほどに強い味方はいないだろう。
 閉鎖的な九曜国の体制そのものを、見直す段階に入ってきているのかもしれなかった。
「そんな盛大な宴にはなるはずもないのだし、満月たちも少しゆっくりしていくと良いわ。これまで……ずっと走りっぱなしだったでしょう」
 京華の言葉に、満月はふっと相好を崩した。
 冬を控えたある日、忽然とベランダに現れて満月を月姫と呼んだ玉兎。ただの女子高生を捕まえて、お前しかいないなどと大層なことを告げた九螢。不気味な館で意味深長に真実を匂わせた帛鳴。初めは敵対していた晴尋、赤鴉、彩章の日の三人。様々な人との出会いは、臆病で後ろ向きだった満月を否応にもひたすら前に向かわせた。その中で、現状を何も変えることのできない無力感ややるせなさやもどかしさで、心が張り裂けそうになることも幾度もあった。沢山の人の哀しみや怒りを知るとともに、己の中にほとばしるような激情が在ることを知った。
 満月は、日本で学生生活を送っていた頃、多くを取りこぼしてきた己の小さな手のひらを開いて見つめた。
 全てに絶望し、明螢と同じ道を選んだ九螢を間一髪の所で取り戻したこと。月を罵倒し嫌悪していた輪国の人々が、月の欠片を手に月宮殿を訪れてくれたこと。強制的に日本に帰還させられ、そこで出会った京華が、今こうして計都国の曜子を立派に務め上げていること。誰かや何かを守りたいと心の底から願ったこと。長いようで、短かったこれまでの九曜国での生活の中で、満月はどれだけのものをこの手のひらで掬い上げることができただろうか。
 満月は、この世界で立派に曜子としての務めを果たしてきたと胸を張って言うことはできない。けれど、今はこの小さな手のひらを、少し誇らしく見つめることができる。
「そう、だね」
 満月は拳をつくると、京華に連れ立って歩き始めた。
 ずっと離れて作業を行っていた九螢とも、久し振りに顔を合わせることになる。その九螢の前に少しでも綺麗な格好をして出て行きたいと思うようになるなどとは、彼のことを傲岸で強引で何を考えているかさっぱり分からないとしか思っていなかった頃には考えられないことだった。
 満月はふと、蝕と化した計都神と対峙した時、流れに任せて九螢に公開告白のようなものをしてしまったことを思い出して赤くなる。あの時は、ただもう九螢を引き戻したい一心で深く考えることもなく叫んでしまった――というか言葉が勝手に飛び出してきてしまったが、今思えば、何を自分は血迷っていたのかと頭が沸騰しそうになる。
 九螢のことだから気にも留めていないだろうが、半月の間、行動を殆ど共にしていた玉兎はそうはいかなかった。九螢のことが話題に出ると、異様なほどににまにましながら満月を見つめて来るのだから、たまったものではない。誰に聞いたのだか、先程再会した晴尋と赤鴉までもが、満月を意味ありげにちらちら横目で見てきた。穴があったら入りたいとは、正にこのことだ。
「満月、壁にぶつかるわよ」
 言われて、満月は眼前に壁が迫っていたことに気付いた。慌てて、京華について方向転換をする。
 枯れ果てた木々が淋しい庭園を貫く橋を渡り、満月と京華は湯殿に辿り着いた。
 汗と泥にまみれた紅色の衣を脱ぎ捨てる。髪の毛も砂埃のせいでバリバリとしていて気持ち悪い。
「そうそう、満月の制服、計都の精が縫い上がったってさっき言ってたわ。輪国に戻る前にちゃんと忘れずに持って行ってよね」
「あ、あれ縫ってくれたの? そんなことまでしてくれなくて良いのに」
「だって、あれ彗鷺がやったのでしょう? 謝りたいって言ってたから、後で彗鷺の話も聞いてあげてね」
 満月の制服は、蝕の影響を受けて自我を失っていた彗鷺の太刀によって、無残にも切り裂かれてしまったのだった。いくら彗鷺の仕業とは言っても、あの時の彼には自我がなかったのだ。そこまで手厚く扱ってもらうほど高価な服でもなかったし、輪国に居る間も殆どずっとあの服を着ていてかなりボロになっていたので、そのような丁重な扱いを受けるとかえって戸惑ってしまう。
 余程困ったような顔をしていたのだろう。京華はくすりと笑って制服を脱ぎ捨てると、手拭いと桶を持って湯の方に向かって行ってしまう。
 慌てて満月はその背中を追いかけて、あっと声を上げる。
「どうかしたの?」
 振り向いた京華の肢体は桶と手拭いのお陰で肝心な所は隠れているけれど、女の満月の目から見てみても、艶めかしく美しい。
 しかし今満月が声を上げたのは、何も京華の身体に見惚れたからではなかった。
「背中に……」
 京華は何のことか分からなかったようで、首を傾げる。
「紅い痣、京華にもあるんだ」
「痣?」
 京華はまだよくよく事情が飲み込めていない様子で、自分の背中を見ようと首を捻る。
「多分、その位置じゃ鏡でもないと見えないと思う。私も左の鎖骨下辺りに同じものがあるの。やっぱりこれって曜子になったことと関係があるのかな」
「ふうん。左の鎖骨下って、これ? 何だか、変な形してるわ」
 京華が満月の紅い傷を覗き込んで呟く。同性とはいえ、肌をまじまじと見られるのは少し気恥ずかしい。
 満月も京華より見やすい位置にあるとはいえ、鏡でも使わないとはっきりとは見えないので、今、自分の痣がどんな形をしているのかは分からなかった。
「ともかく、早く身体を流して、出ちゃいましょ。計都の精が、満月のことも着飾らせたいって張り切ってたわ」
「な、何で! 私は良いよ。そんな着飾ってもしょうがないし」
「こんな時だからこそ、着飾るんじゃないの。月神様だって……」
「何でそこで九螢が出て来るの! 京華はそういうこと言わないって思ってたのに」
 公開告白をしてしまった自分も自分だが、公開キスシーンを演じた京華も京華なので、二人の間にはそういったことに対して口を開かない暗黙の了解があるのだと、固く信じ込んでいた満月である。
「あいにく、決定事項よ。計都の精はどうやら相当しつこいおばさまやお姉さま方が多いみたいだから、満月が逃げ回っても捕まるまで追いかけ回して来ると思うわ」

 京華の予言は、折悪しくも的中することとなった。
 寝具を纏って縫い上がったという制服を取りに行った際に、突然わらわらと湧いて出て来た計都の精に満月は一人、取り巻かれてしまったのである。
 京華はその様子を遠巻きに見守っていたが、彼女もどうやら見つかってしまったようで、観念した様子で大人しく満月の隣に引きずられて来た。
 満月は小さく溜息を吐きながら目の前の鏡台を見つめる。着たばかりの寝具を脱がされてしまったので、下着以外満月の身体を纏うものは一切ない。月宮殿で環たちに身ぐるみを剥がされたことは何度かあるが、お姫様などには決してなれない一般庶民の満月には、この仕打ちは堪える。が、こうなっては為す術もないので、満月はじっと事が終わるのを待つことにした。
 先程京華と話したこともあってか、自然と左鎖骨下の紅い傷に目が行く。それは確かに、歪な形をしていた。紅色をした、完全な円形からどろりと一部が溶け落ちたような……以前、鏡で見たのはいつのことだったか、それがどんな形をしていたか、記憶は定かではない。ここの所、それどころではなかったし、身なりに気を配る余裕なんてなかった。
「明日で、京華ともお別れ……か」
 満月は髪を梳いてくれている計都の精の妨げにならないよう、真正面を向いたままぽつりとこぼした。じわり、と視界が潤みそうになるのを根性で堪える。化粧をしてもらっている手前、涙など流すわけにはいかない。
「別に一生会えなくなるわけじゃないわ。お互い落ち着いたら、少し遠出するくらいできるようになるだろうし。それに同盟を結ぶことにもなりそうだし、すぐに会えるわよ」
 何でもないことのように言う京華がちょっぴり恨めしい。まるで自分だけ寂しいみたいだ。こういう時、京華は強いなと思う。見知らぬ土地でこれから計都神と彗鷺と三人で、荒れ果てた国を治めていかなければならない。その不安や気概を感じさせることなく、京華は平然と微笑む。
 満月が臍を曲げたのを察したのだろう。京華は苦笑いをしてみせた。
「私だって、これからのことを思えば不安だし、できることなら満月とずっと一緒に居たいわ。私が居ない間に月神様が満月にべったりしているのかと思うと、いらっとするし」
「け、京華?」
「何?」
「い、いえ何でもないです」
 聞き返す勇気などない満月は、そう言い繕って押し黙る。
「でも、本当に満月には感謝しているわ。満月が居なかったら、私は生き残れなかっただろうし、この国が助かることもなかった。それどころか、私は計都国に赴くことなく、あちらで平穏な暮らしを送っていたかもしれない」
 満月は思わず京華を向いた。髪が引っ張られて、頭部に痛みが走る。すみませんと髪をくしけずってくれている計都の精に謝ると、満月は再び鏡に映った自分を見つめた。何だか、必要以上に飾り立てられている気がしないでもない。
「そんな……だって私、京華を連れて来る時、とても酷いことしたんだよ?」
「だから、それはなし。勿論、悠里さんや和理との平和で幸せな暮らしに未練がないと言ったら嘘になるけれど、こうして、今ここに居られて良かったと、心から思うのも本当よ。あの人を失わなくて良かった……。本人には、死んでも言わないけど」
 京華らしい言葉に、満月も固くしていた表情を緩めた。
「うん。私も、九螢を失わなくて良かったって――そう思う」
 にこにこと笑い合ってお喋りを続けていたら、やがて彩章と赤鴉までもが計都の精の手に引かれてやって来た。赤鴉は乗り気のようだが、いつも冷静沈着で滅多に表情を崩さない彩章の方はと言うと、珍しく焦っている。私のような年寄りを飾り立てても何の余興にもならないと言い張る絶世の美女を、満月は京華と赤鴉と計都の精総出でなだめすかして、女だけの遠慮の要らない賑やかな時間を楽しんだ。


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